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サブカルとは?/ アイフル

[ 319] サブカル(仮)@2ch掲示板
[引用サイト]  http://human7.2ch.net/subcal/

3 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/31(土) 01:00:43 ID:Onf5QbYt 宇野常寛がこのブログについていろいろ悪口を言っているようだが、 いいかげんにしてほしいのはこちらである。まだ交友があったころ(今はない)、彼が古本で探している、 当時アマゾンで3000円ほどのプレミアがついている雑誌をただでさしあげたら、お礼もなしにさも当然というような顔を して受け取られたようなことがある。お礼に『PLANETS』はもらったのだが、 それでもお礼のひとこともなかったという事実は変わらない。それから、 某所でちょっと彼の書くものを批判したら、唐突に夜中に携帯に電話をしてきて激怒されたこともある。 それでいて彼は「ゼロ年代の想像力」の第一回で東浩紀を批判する理由をくどくど弁明がましく書いている。 常識もなしに深夜に電話をかけてきたこと(挨拶もなしに)は、一度ではない。その内容とはたとえば「惑星ラブワゴン」に 「うだつのあがらないいちもてないオタク」として出てみない?などという失礼な申し出である。蛇足だが、結局この企画は メンバーが集まらなかったみたいで、vol.3の「惑星ラブワゴン」は彼が書いた創作小説となっている。 「さえないオタクが痛い目にあう」という願望充足小説をせっせと書いて満足している人間が、 はたして「セカイ系」軍団を批判する資格があるのだろうか。 個人的に宇野常寛と交友がある者なら誰もが知っていることだが、 彼は「ひとに言っていることとまったく同じことを自分がいわれると怒り狂う」、 しょうもないやつである。性格は愚劣な人間だが、それでも頭はいいしある程度 「一理ある」ことを言える人間なので、その意味で宇野常寛フォロワーより高く評価する。 だけど宇野さん、この記事をみても夜中に電話はしてこないでくださいね。
4 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/31(土) 01:01:05 ID:Onf5QbYt 2007-12-26 緊急更新、この部分はたぶんあとで削除します。 宇野常寛が、惑星開発委員会のメンバーである第三者への電話を通して、昨日の記事に削除要求を出してきた。 伝言だと意図がはっきりしないのでこちらは「電話していただいてかまいません」、という意思を伝えたが、 電話は「こじれるからいや」だと言っているらしい。昨日の記事はオレ自身先走ってしまって書いたところがあって、 案の定2ちゃんの宇野スレ、東浩紀スレでさらされ、がんがん人がやってきている。 事実関係に個別に異議があればそれははっきり謝罪して訂正するつもり。 現在このブログはメールアドレスを持っていないので、どこが事実としておかしいか、遠慮なくコメント欄に書いてほしい (なんでも「当日メシをおごっただろうに」などと言っているようだが、やはり伝達なのではっきりしない)。 もちろん時間をいただければアドレスを取得するが、その場合いただいたメールはここに転載するかもしれない。 こちらも年末進行の忙しい時期に徹底的にやりあって消耗したくはないので (ネットにオレの反論を書くヒマがあったらコツコツやれ、って説教してくれたのは宇野さんですよね?)、いったん このブログの宇野常寛にかんする記述する可能性はある。 このブログの読者が宇野・東ウォッチャーだらけになるのは本意じゃないからね。 オレとしては人格攻撃をやるつもりはなかったんですが、ただ本人がいままでいたるところで人格攻撃や差別的言動 (これはオフラインで)をくりかえしてきたからねえ。 エロゲオタのみなさーん、ここに「keyのゲーム」は「援助交際肯定ブンガク」って決めつけてるひとがいますよー(笑)。 オタクを敵に回すとこわいぞー(笑)。あと宇野スレは出版関連のひとも多数見てますからねー(笑)。

 

[ 320] TBS RADIO みうらじゅんの「サブカルジェッター」〜2番目がいいんじゃない
[引用サイト]  http://www.tbsradio.jp/mj/

この番組はサブカル版「徹子の部屋」ということで、毎回みうらさんのサブカル友達をゲストに迎えてその人の歴史を紐解いて参りましたが、今夜はとうとう最終回...。
そして、みうらさんの歴史を辿るにあたり、特別ゲストに作家の松久淳さんをお迎えして、松久淳さんに司会進行していただきました。
「僕も年表をつくってほしい」ということで、番組特製みうらじゅん年表と共にみうらさん誕生からカエルブーム、怪獣ブーム、仏像ブーム、不遇の小学生時代から高校時代くらいのお話までお送りしました。
ーみうら:そうなんですよ。そのなかの一人が、「ユースホステルというところはフリーセックスだ」って話を持ちかけてきたんですよ。
あのね、うまいことついてこられて、ユースホステルっていうところが、フリーセックスだということで、スウェーデンの国は道端でもヤッてるらしいと聞いてました。
日本でもそういう島があるっていうから、そこのユースホステルの会員になって。で、その後、島根県の隠岐島ってとこに、毎年行くってことになって。
1年目で気がつけばよかったんだけど、2年目でいや?まだまだじゃないか?と思って行ってたんですけど...。
そこで、夜ハンカチ落としとかするんですけど、出会った人とは全員次の日「失恋」だと思ってたから、ざーって泣いて、、、
結局「青春ノイローゼ」に摩り替わって「ユースホステス」はすっかり忘れちゃってて...青春を謳歌していました。
パンツ見たっていうか、そこのユースホステルに泊まってたお姉さんから「一緒に泳ぎに行こうよ」って言われて、「わ?????」なんて行ったら、白い水着でサポーターを履いていないっていう特典付きだったんですよ。
で、わ???って泳ぎに行かれて、僕、泳げないんでビーチでボーーっとしてたんですけど、ザバッってあがってこられたら、もう黒い陰りが...出て戻ってこられるから。
「また、泳ぎに行かれたらいいじゃないですかあ??」とか言って、もっと透けてこないかなと思って。(笑)
もちろん、簡単に住所教えてくれますから、青春っていうのは。今みたいに個人情報が流れるとか...今、個人情報が流れるとか言うけど、青春じゃないです。
ーみうら:全部分かるわけですよ。で、その子からきた手紙に対し、僕がギターでメロディーをつけてカセットで送り帰す始末なんですよ。で、ぷっつり返事が来なくなるんですよ。
この番組は、サブカルを研究する上でゲストの方々の年表を辿ればサブカルのすべてが見えてくると思いましたが、、、、ほとんどわかりませんでした!
サブカルどころかオナニーの話で終わってしまい、"公の場でオナニーの話をするいい大人というのがサブカルだ!"ということが、
そして、「結局サブカルは世代だった!」ということがこの番組を通じての振り返りといえるのではないでしょうか(笑)
欲しかった、奥村チヨさんの「恋の奴隷」は、父親に「危ない方向へ行くんじゃないか?」と思われ買ってもらえなかったけど、この曲は買ってもらえた。

 

[ 321] 日本における「オタク」と「サブカル」 - ボンズ?ル・ブログ|Le Spleen de Tokyo
[引用サイト]  http://www.bonzour.fr/blogs/spleendetokyo.php?itemid=42

なおこのエセーは多分に筆者の個人的な体験にもとづいており、先行する文献や統計的な資料はあまり参照していない。「オタク」と「サブカル」の相違点について、自分なりの見解をまとめておきたかったのが、このエセーを書いた動機である。
また本文を読む上で注意してほしいのは、現代の日本では「文学」は「小説」とほぼ同義語として用いられていることだ。「文芸評論家」は実質的には「小説の評論家」であり、詩や戯曲が論じられることは少ない。
日本のサブカルチャーを論じるさい、見落としてはならない点がある。それは日本ではサブカルチャーが、オタクとサブカル(subcultureの略称)にさらに二分化されていることだ。
大雑把にまとめるならば、オタクは漫画、アニメ、ビデオゲームなど(およびその愛好家)であり、サブカルは文学、ポピュラー音楽、映画など(およびその愛好家)である。またオタクはファッションに無頓着で恋愛経験に乏しく、サブカルはファッションに敏感で異性と盛んに交際しているとされているが、これは通俗的なイメージにすぎない。しかしこのようなイメージが流通する程度には、オタクとサブカルのあいだにライフスタイルや雰囲気の違いがあるのは事実である。
もちろんオタクとサブカルははっきり分かれているわけではない。たとえば漫画であっても、実験的な手法を駆使した作品、現代の若者の風俗を繊細なタッチで描いた作品などは「サブカル系」と呼ばれ、大きな書店では他の漫画とは異なるコーナーに置かれている。文学においては、ティーンエイジャーを読者対象としており、アニメ風のイラストで飾られ、SFや推理小説の要素を取り入れた作品は「ライトノベル」(light novel、和製英語)と呼ばれ、オタク向けの商品として売られている。なおライトノベルでは小説家とイラストレーターがほぼ等しい扱いを受けており、イラストレーターによって作品を選ぶ読者が少なくない。実際、表紙を見ただけでは漫画と区別できないライトノベルは多く、書店では漫画のコーナーとライトノベルのコーナーは隣接している。文学は娯楽性が強まり、対象とする読者が年少になるほど、サブカルではなくオタクとして扱われるようになるが、ライトノベルはもっとも極端な例であろう(いうまでもなく、伝統的な児童文学は除外する)。
オタク(漫画、アニメ、ビデオゲーム)はアメリカに起源を持ちながら、日本で独自に発展を遂げ、日本が文化輸出国となっている。それに対してサブカル(文学、映画、ポピュラー音楽)は欧米の方法論や流行を取り入れたものが評価され、日本は文化輸入国に留まっている。「日本の作品はレベルが低い」として、もっぱら欧米の作品ばかりを消費するサブカルもいる。とりわけポピュラー音楽では、どれだけ「本場」(ここでいう「本場」とは、ほとんどアメリカとイギリスを意味する)の作品を思わせるかどうかが評価の基準のひとつとなっており、「まるでアフロ・アメリカンのような歌声」という誉め言葉が雑誌で多用される。これに対して漫画が「まるでフランスのバンド・デシネのように素晴らしい」と誉められることはない。またSFや推理小説では、「英米の作品の水準に追いつくこと」が大きな目標となっていた(ただしSFや推理小説はオタクなのかサブカルなのか、明確ではない。前にも述べたように娯楽性の強い文学は、オタク扱いされやすいからだ。また同じ推理小説でも、アガサ・クリスティーのような作風はオタク、レイモンド・チャンドラーのような作風はサブカルに好まれる)。
だからといってオタクがナショナリストで、サブカルが西洋崇拝者だと決め付けるのは早計である。オタクにしてもサブカルにしても、一定の批評的なセンスを持っている者は、みずからの立場やジャンルの特性を客観視した上で作品に接している。ただし極端に排外主義的、愛国主義的な主張をインターネットで繰り返すオタクや、文法の間違った英語やフランス語を装飾的に使うサブカル作品が存在するのも事実である。筆者が特に問題としたいのは、オタクにおける排外主義者、愛国主義者の多さである。彼らはもしフランスに生まれていたら、ル・ペン支持者になっていたかもしれない(ただし日本の「ル・ペン支持者候補」たちが低学歴層・低所得者層だとする統計的な根拠はない)。それに日本ではインターネットは仮面舞踏会のような性格を持っており(とりわけ誰でも匿名で投稿できるタイプの掲示板ではこの傾向が強い)、かならずしも本音を素直に書いているとはかぎらないので、彼らが真正の排外主義者、愛国主義者であるかどうかは、簡単には判断できない。ただしオタクが右派的な言説にいくらかのシンパシーを感じているのは否定できない。
マスメディアの扱いにおいても、サブカルとオタクは大きく分かれる。サブカルやハイカルチャーが海外(とりわけ西洋)で高名な賞を受賞したり、ヒット作になると、マスメディアは大きく報道する。それに対して最近は状況が改善されつつあるが、海外でオタクがヒットしても、ほとんど報道されない。無視できないくらいの大ヒット作が出たときにはさすがに報道するが、あくまでも「特殊な現象」という扱いである。
ここまでの記述である程度は判っただろうが、オタクはあまりいい印象を持たれている言葉ではない。これは1988年から1989年にかけて起こった幼女連続殺人事件に由来する。犯人の青年は典型的なオタクとして報道され(のちに決して狭義のオタクではなかったことが判明した)、この報道がきっかけでオタクという言葉が一般に知られるようになった(オタクという言葉が生まれた由来は、本論とは深い関係がなく、また長くなるので割愛する)。長らくオタクはこの陰惨な事件と結び付けられていた。それに対してサブカルは単に「subcultureの略称」にすぎず、特殊なコノタシオンを持つことはなかった。もし何らかのコノタシオンを持つとしても、「時代の最先端」「いまもっとも刺激的な文化」という肯定的なものがほとんどだった。
こうした状況が変化してくるのは、2000年前後からである。1995年から1996年に放映されたアニメ「新世紀エヴァンゲリオン」はオタクだけではなくサブカルからも評価され、「日本アニメ史上に残る傑作」として大きな社会的ブームを巻き起こした。「大人になってもアニメを観るのは恥ずかしい」という意識が、このブームでかなり薄れた。そして幼女連続殺人事件の記憶は薄れ、おまけにオタクに海外からの注目が集まっているのが知られるようになった。このため、みずから積極的に「自分はオタクだ」と名乗るオタクが増え、ブログなどで自分の趣味を熱心に語るようになった。オタクが忌避される理由のひとつとして、ポルノグラフィーが多いのが挙げられるが、男性オタクはみずからの性的な嗜好をオープンに語り、ときには自分が描いたポルノグラフィックなイラストをネット上で公開するようになった(ただし女性オタクは自分の趣味を公言することに慎重であり、この違いは重要である)。
サブカルという言葉はネット上で、オタクによって侮蔑的に使われるようになる。オタクのサブカル批判を大きくまとめると、「サブカルは異性を獲得するため、あるいは自分を知的に見せるための手段として文化を利用しており、作品の本質を理解していない。われわれオタクは異性の獲得とも知的虚栄心とも無関係に、ストイックに作品と向き合っている」となる。これに対してサブカル側からの本格的な反論は少ない。あまりにも的外れな批判なので無視しているか、あまりにも正確な批判なので反論できずにいるか、ふたつの可能性が考えられるが、筆者としては前者の可能性が高いと考えている。なぜならオタクが攻撃するサブカルは、実態からかけ離れた虚構のイメージであることが多いからだ。しかしこのような流れを受け、自虐的なニュアンスを込めて「自分はサブカルにすぎない」と自称するブロガーが増えている。ただし繰り返すように、日本のインターネットには仮面舞踏会的な性格がある。オタクが本気になってサブカルを憎悪して攻撃しているのか、一種の論理的なゲームとしてサブカル批判をおこなっているのか、見極めをつけるのは難しい。またこうした議論に加わるオタクは男性がほとんどであり、女性オタクは男性オタクに較べると、全般に寡黙である(しかしこの現象を、「日本の女性はつつましい」という古くからあるステロタイプと結び付けてはならない)。なおここで取り上げた事象のほとんどは、インターネット上でしか当てはまらないのは強調しなければならない。後述するように、マスメディアではオタクはまだ充分な市民権を得ていない。公平を期すために付け加えるなら、日本のサブカルにはカウンターカルチャーとしての側面は乏しく、ロックもヌーヴェル・ヴァーグも「西洋の新しい文化」として表面的なスタイルだけが模倣された。ゆえに「サブカルはファッションとして文化を利用している」というオタクからの批判に、正当性がまったくないわけではない。
ここまで書き進めてきて、筆者はひとつの困難に直面している。それはサブカルを定義することの難しさである。何がオタクであって何がオタクでないかは、はっきりと定義できる。しかし「これがサブカルである」と断定的に語るのは容易ではない。このエセーに留保的な言い回しが多いのは、こうした事情によっている。「サブカルとは、オタク以外のサブカルチャーを指す」という消極的な定義が、もっとも正確かもしれない。
なぜこのような状況になったのか、理由はいくつか考えられる。1980年代までは若者向けの大衆文化は「サブカルチャー」(もしくは「サブカル」)と総称されており、オタクもそのなかに含まれていた。しかし産業的にも文化的影響力でも大きな存在になるにつれ、オタクは次第にサブカルの枠内には収まらなくなり、自立したジャンルとなった。そしてサブカルは、オタクが自立したあとの残余にすぎなくなったのだ。オタクたちは「オタク的だから」という理由で特定の文化商品に関心を示す。それに対してサブカルたちが「サブカル的だから」という理由で特定の文化商品に手を出すのは稀だ。ふと気が付いたら、自分が好きなものがサブカルに分類されていた、といったケースのほうが多い。
サブカル定義の難しさを示す事例としては、アマチュア作家向けのイベントが挙げられる。日本では年に二回、「コミック・マーケット」(コミケ)というオタクのためのイベントが東京で開催されている。コミケではアマチュア作家(多くは漫画家)が作品を売買しており、このイベントに合わせて夏期休暇や冬期休暇のスケジュールを調整するオタクは数多い。1日の参加人数は10万人単位となっており、漫画雑誌の編集者が優秀な新人を探し出すために足を運ぶこともある。またコミケほど大規模ではないが、コミケに類似したイベントは、日本の各都市で毎月・毎週のように開催されている。
これに対してサブカルにおいては、コミケに相当するような大きなイベントはない。野外コンサートの「フジ・ロック・フェスティバル」には多くのポピュラー音楽ファンが押し寄せるが、あくまでも好きなミュージシャンの演奏を聴くのが目的であり、アマチュア同士が自分の作品を公開し、販売する場にはなっていない。ポピュラー音楽以外のジャンルにおいても同様である。オタクには「自分たちはオタクである」という強い連帯感があり、それがコミケのような巨大イベントを支えている。こうした連帯感はサブカルには乏しい。あくまでもマイペースで好きな作品を消費し、ときとして創作するのがサブカルの行動パターンであり、過剰な連帯感は忌避される。具体例を挙げるにつれて話が脇にそれたが、サブカルをたばねる大きなイベントが存在していないことが、サブカルの定義が流動的であるのを示しているだろう。
ただしサブカルを積極的に定義しようとする動きがないわけではない。1986年に第一号店が開店し、その後は全国に支店を広げている「ヴィレッジヴァンガード」(Village Vanguard)が典型である。「ヴィレッジヴァンガード」の店内には、いかにもサブカルが好みそうな書籍、CD、雑貨が所狭しと並べられいる。たとえば漫画のコーナーでは、先に説明した「サブカル系」の作品が優先的に陳列されている。サブカルの話題作は、ヴィレッジヴァンガードに通っていれば手に入ると言ってもいい。しかしこの店に嫌悪を示す年長のサブカルは少なくない。「『サブカルとはこういうものである』と消費者を囲い込む経営方針が気に入らない。自力で優れた作品を探し出すことにサブカルの楽しみがある」と筆者の友人が最近語っていたが、筆者もまたこの意見に賛同する。ヴィレッジヴァンガードが東京ではなく、名古屋という地方都市からスタートしたのも見逃せない。名古屋は都市としての規模は大きいが、独自の文化を生み出し、全国に広げる力には乏しい。こうした都市を出発点としていることにも、留意する必要があるだろう。
これはサブカルの定義が流動的である理由のひとつでもあるが、日本ではサブカルとハイカルチャーは横断的な関係にある。筆者が少年時代からファンを続けている音楽家と小説家を例にすれば、坂本龍一(フランスでは「Furyo」や「Le Dernier Empereur」の映画音楽で知られているだろう)は音楽・美術系の大学ではもっとも合格が難しいとされる東京芸術大学でクラシックの作曲理論を学んだあと、ポピュラー音楽の世界で大きな成功を収めた。そして最近では壮大なオペラを手掛けたり、後期ブラームスやドビュッシーを思わせるピアノ作品集を発表する一方で、ロック・フェスティバルに出演して若い聴衆を踊らせている。筒井康隆(1997年にシュヴァリエ章を受けている)はSF作家としてデビューして、多くの過激な娯楽小説で若い読者を熱狂させたが、次第に活動領域を純文学の世界に移した。いまでは主要な文学賞の選考委員をつとめるなど、純文学の重鎮的な存在になっているが、娯楽小説の執筆をまったくやめたわけではない。坂本や筒井のこうした姿勢を、「裏切り」「ハイカルチャーへの迎合」と厳しく批判するファンは少ない。
彼らよりも若い世代では、パンクロックの町田康(町田町蔵)やノイズ音楽の中原昌也は、斬新な作品を書く文学者として有力な文学賞を受賞しており、いまではミュージシャンではなく、文学者としての活動に重点を置いている。数年前に推理小説でデビューした舞城王太郎や佐藤友哉も、いまでは純文学雑誌を活動の拠点にしている。繰り返すが、デビュー当時からのファンがこうした変化を批判することはあまりない。また厳密にはサブカルではないが、北野武は若いころはエキセントリックで下品な芸風のコメディアンとして有名で、彼が出演するテレビ番組は「子供には見せたくないワースト番組」に選ばれた。そして映画監督としての名声を確立したいまでも、彼はコメディアンとしてテレビに出演するのをやめていない(さすがに以前のように下品なコスチュームを着ることはなくなったが)。奇矯なコメディアンとしての北野武(芸名はビートたけし)とハイブロウな映画監督としての北野武は、矛盾なく受け入れられている。
これに対してオタクはどうだろうか。宮崎駿や押井守は日本を代表するアニメ映画監督で、むかしの作品はいまだに多くのオタクから高く評価されている。しかしアニメに関心が薄い知識人からの評価が高まり、作風がハイカルチャーを意識したものになるにつれて、宮崎や押井の新作に対するオタクの態度は冷淡になっていった。オタクはオタクだけで閉鎖的な市場を形成しており、作品の作り手も受け手も、オタク以外の文化ジャンルとの交流には積極的ではない。このため、爆発的なヒットを記録しているにもかかわらず、オタク以外にはまったく知られていない作品が数多くある。海外からは日本人はみなオタクに理解があるように見えるのかもしれないが、実際にはオタクにまったく関心のない日本人は珍しくない。マスメディアではいまだにオタクは風変わりで幼稚なものとされ、無知と偏見にもとづく批判が繰り広げられることがある。とりわけ中高年を対象にした雑誌やテレビ番組では、この傾向は顕著である。マスメディアとインターネットでは、オタクをめぐる言説には大きな落差があるのだ。マスメディアが伝えるオタクのイメージが不正確すぎるため、オタクがみずからの意見を主張する場としてインターネットが発展した、といえるかもしれない。オタク市場が閉鎖的になった原因について、筆者は断定的なことは言えない。しかしオタクには長らくネガティブなイメージが持たれていたこと、オタクにはポルノグラフィーが少なくないことと無関係ではないだろう。
ここまでオタクとサブカルをめぐって、思いつくままに文章を重ねてきた。データの裏付けに乏しく、やや散漫な記述になったので、日本で暮らしたことのない読者や日本語で書かれた本格的な論考を読めない読者にどこまで実情が伝わっているのか、心許ない。筆者が読者に伝えたかったのは、現代の日本ではハイカルチャーとサブカルチャーの違いよりは、サブカルチャーの内部にあるオタクとサブカルの違いのほうが重要であることだ。この点を見逃した上で日本の文化を論じても、不正確な結論しか得られないだろう。
またこのエセーでは意図的にオタクとサブカルを対立的に描いたが、実際にはそれほど激しく敵対しているわけではない。オタクとサブカルの違いを理解しながら、どちらも同じように楽しんでいる消費者は少なくなく、筆者もそのひとりである。しかしオタクの持つ排他性や視野の狭さにはどうしても馴染めず、サブカルの風通しのよさに安堵を覚えることは、正直に告白しておく。
独自の文化を生み出すことは多少ならずはあっても(特に食文化!)、全国に広げる力には乏しいと思いマス。或は広げようとしていないのかも。良く言えばそういう点では欲がない。ケチな人が多いですけれど(笑)。
とりわけ閉鎖的でもないけど、やっぱりちょっと閉鎖的なのかな…。“サブカル”について言えば、ちょっとつつけば結構濃い人が多いけれど、内輪ウケで満足するの多いのかもしれません。
これ、日本国内に向けて発表するにはいいけど、日本人(特にオタク)以外に見せるにはどうなんでしょう?
2000年より前ぐらいの、オタクが岡田斗司夫的価値観で、趣味の世界でサブカル軍団と対立ごっこをプロレス的にやってた時代なら、なかなかのマイクアピールだと思うんですが……。
んでそのとき、一番ネットではしゃいでた、もう40の声が聞こえる我々70年代生まれが、もうオタクもサブカルも死んでるよな、と。
今どき「サブカル死ね! 氏ねじゃなくて死ね!」ってブチあげてくれる若い衆がいればまだまだ楽しめるわけですが、そんなのどこにもいないでしょう?
サブカルとオタクが死んだのは、もう今どきの人は国外に敵がいないと思ってるのも大きいと思うんですよね。
と判断したから、オタクとサブカルが対立する意味が見出せないので、コインの表裏であるオタクとサブカルは対立する意味を見出せなくなったんじゃないかと。
厳密には、文中でおっしゃられてるとおり、フランスの場合だとオタクはマンガ読者ではなく、バンド・デ・シネ読者になりますね。
「わが欧米のゲーム開発者が血反吐を吐いて大変な技術を磨いて現在過去未来のドイツ兵を撃ち殺すゲームに磨きをかけてるのに、日本はおしゃれな絵とスマートなアイデアがかっこよくて面白いだけのミニゲームで、俺たちみたいな同じようなドイツ兵を撃ち殺すゲームを飽きもせずに遊び続ける硬派ゲーマーを見捨てて老若男女を騙してガッポリ楽して儲けやがる!
もとのエントリーの著者です。みなさん、貴重な意見をありがとうございます。特に「オタクかつサブカル」さんの指摘には、なるほどと唸らされました。ただこのエセーは、あくまでも「叩き台」であって、フランス人読者からの反応も見ながら、個々の論点についてより深めた考察を書こうと思っております。よろしくお願いいたします。
ですね、たぶんオタクとサブカルは日本文化愛好者という時点で、日本と外国では立ち位置が逆転してるってことは説明されたほうがいいのではと思います。
>しかしオタクの持つ排他性や視野の狭さにはどうしても馴染めず、サブカルの風通しのよさに安堵を覚えることは、正直に告白しておく。
「オタクの擁護をしているようでいて、結局はサブカルの味方をしてしまう自分」に対するメタ的な自虐だと思っていただければ幸いです。
しかしオタクの持つ排他性や視野の狭さにはどうしても馴染めず、サブカルの風通しのよさに安堵を覚えることは、正直に告白しておく。

 

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