コミュニケーションとは?/ アイフル
[ 304] コミュニケーション能力を高めるために
[引用サイト] http://www.toyama-cmt.ac.jp/~kanagawa/language/communicate.html
「世のなかにはおかしな連中がいてだな、まるで溜り水のように、にごった薄皮を顔一面に張りつめ、かたくなに押し黙ったままでいる、というのも世間から、智恵がある、まじめだ、思慮深い、という評判を得たいだけのことなのだ。そこで、『われこそは世界一の賢者なるぞ、わが信託を犬どもは黙って聞くべし』といった顔つきをする。だがアントーニオ、おれはそういう連中のことをよく知ってるが、要するになにもしゃべらないから賢いと思われているだけだ、一度でもしゃべってみろ、聞いたものは必ず地獄に堕ちるぜ、たとえ相手が兄弟でも、ばか野郎とどならずにはいられないからな。まだまだ言いたいことはあるが次の機会にしよう、とにかく、そんな憂鬱という餌で世間の評判というダボハゼを釣るようなまねはよしたほうがいい」 小さなモモにできたこと、それはほかでもありません、あいての話を聞くことでした。なあんだ、そんなこと、とみなさんは言うでしょうね。話を聞くなんて、だれにだってできるじゃないかって。でもそれはまちがいです。ほんとうに聞くことのできる人は、めったにいないものです。そしてこの点でモモは、それこそほかには例のないすばらしい才能を持っていたのです。 言葉は力である。千尋の迷い込んだ世界では、言葉を発することは取り返しのつかない重さを持っている。湯婆婆が支配する湯屋では、「いやだ」「帰りたい」と一言でも口にしたら、魔女はたちまち千尋を放り出し、彼女は何処にも行くあてのないままさまよい消滅するか、ニワトリにされて食われるまで玉子を産みつづけるかの道しかなくなる。逆に、「ここで働く」と千尋が言葉を発すれば、魔女といえども無視することができない。今日、言葉はかぎりなく軽く、どうとでも言えるアブクのようなものと受けとられているが、それは現実がうつろになっている反映にすぎない。言葉は力であることは、今でも真実である。力のない空虚な言葉が、無意味にあふれているだけなのだ。 合唱の美しい響きをつくりだすには、ひとの歌を聴かなくてはならない。そして、ひとも自分の声に耳を傾けているのだということを知らなければならない。 ジェイはしばらく考えて、それから笑った。「でもそれを判断するのはあんたたちの子供の世代であって、あんたじゃない。あんたたちの世代は……」 若い連中の言葉遣いが最近ひどくてねえというのは、もう時代の流れから取り残されてしまった老人がネタがなくなったときに週刊誌のコラムに書く題材である。だが、ぼくのこの一文はそれとは違う。なにか人間どうしの対話を頑強に拒む粗雑さを前にした時の怒りと当惑を、理解してもらいたい。 これは本人のみならず、会社にとっても大きな損失になるので、会社はどこも面接を重視してコミュニケーション能力の高い学生を採りたいと考えているという。どんなに優れたアイデアを持っていてもそれが言語化できなかったら、無用の長物になってしまう。「能力×コミュニケーション」でその人の評価が決まってしまう時代に僕らは生きているのだ。もう一つうがった見方をすれば、企業は日本の大学教育で学ぶことを信じておらず、どうせ一から教えるならコミュニケーション能力を持っていた方がいいと考えているかもしれない…。 17歳による悲惨な事件が相次いでいる。「マジ切れ」状態になる子どもたちが多い。「教師に対してもむかつくぅ」という言葉を平気で吐く。言葉に出しているうちはまだいい。黙っていて突然、蒸気爆発を起こしてしまう。例えば、水島広子は『親子不全=<キレない>子どもの育て方』で「摂食障害やナイフ事件などの子どもたちに共通するのはコミュニケーション不全です」と書いている。ストレスを言葉ではなく病気や問題行動によってしか表現できないという、一種の歪んだコミュニケーションの形なのである。そして、子どもたちのコミュニケーション能力が低下した原因の一つに、親のコミュニケーションの問題があるという。渡辺京二『逝きし世の面影』(葦書房)によれば、幕末や明治初期に来日した外国人は日本の子どもを「まるで成人した大人のように賢明かつ落ち着いた態度をとる」といって、「自己保持能力」に驚いたという。ふだんから大人に交じって大人の振る舞いを見て、こういうときにはこうするものだと学んでいたようだ。その知恵が子どもに伝わっていない。考えてみれば、家庭でも地域でも一緒に遊んだり、ケンカしたりする子どもが少なくて、コミュニケーション能力を高めることなんか簡単ではない。 コミュニケーションに関して一番大事なのは、コミュニケーションの可能性に関して「期待しない」ことだと思うんです。【…】コミュニケーションって、決意さえすれば、もう翌日からすらすらうまくゆくって思っている人、けっこう多いでしょう。ほんとうは気長な修業が要るっていうことが忘れられてるんじゃないかな。【…】コミュニケーションには訓練と技術が必要なのは確かでしょう。失敗しながら、仮説と検証を繰り返して。手間暇かけなくちゃいけない。【…】精神の病というのは、端的にコミュニケーション不調のことでしょう。 大岡信も『詩・ことば・人間』(講談社学術文庫)の「言葉と人格」の中で、日本人夫と外国人妻の間に生まれ、パリのアパートでコミュニケートすることなく、育てられた問題行動のある子どもが日本の実家で育てられるようになって日本語の中に同化し、元気な腕白坊主になっていった姿を見て、言葉は正統な意味で、人格的現象だと述べている。 事実、近代の詩人たちの多くは、そのような未分化で原初的な感情を呼び戻そうと、繰り返し試みてきた。だが、それはもともと極めて困難な逆転作業であって、成功を初めから念頭においてできるようななまやさしい試みではない。言葉を用いて、言葉以前の世界に戻ろうとするのだから、初めから絶望的な矛盾をはらんでいるのである。 しかし、このような試みが繰り返されるということ自体、言葉の世界の驚くべき広大さを示していると言うべきだろう。ある言葉が与えられて初めて、ある感情が明瞭に自覚されるようになるということは、なにも幼い子供の場合だけではない。人はその知っている言葉の世界の広さに応じて、感情の世界をもつと言っていいのである。 三島由紀夫の『金閣寺』の主人公も生来の吃音のために、日常的に、周りから蔑まれ、嘲笑の対象になっていた(下線は金川)。 吃りは、いうまでもなく、私と外界とのあいだに一つの障害を置いた。最初の音がうまく出ない。その最初の音が、私の内界と外界との間の扉の鍵のようなものであるのに、鍵がうまくあいたためしがない。一般の人は、自由に言葉をあやつることによって、内界と外界との間の戸をあけっぱなしにして、風とおしをよくしておくことができるのに、私にはそれがどうしてもできない。鍵が錆びついてしまっているのである。吃りが、最初の音を発するために焦りにあせっているあいだ、彼は内界の濃密な黐(もち)から身を引き離そうとじたばたしている小鳥にも似ている。やっと身を引き離したときには、もう遅い。なるほど外界の現実は、私がじたばたしているあいだ、手を休めて待っていてくれるように思われる場合もある。しかし待っていてくれる現実はもう新鮮な現実ではない。私が手間をかけてやっと外界に達してみても、いつもそこには、瞬間に変色し、ずれてしまった、…そうしてそれだけが私にふさわしく思われる、鮮度の落ちた現実、半ば腐臭を放つ現実が、横たわっているばかりであった。 有為子という女性に近づいた時に「何よ。へんな真似をして。吃りのくせに」と言われ、有為子の声に「朝風の端正さと爽やかさ」を感じ取る。そして、「人に理解されたいことが唯一の矜(ほこ)りとなっている私」が事件を起こす。 人は色々なわだかまりを持って生きている。わだかまりはユングのいう意味でコンプレックスといいかえてもいい。複雑な心の作用が絡まって解けないことがある。しかし、例えば、日記に書いてみるとそのわだかまりが解けることがある。日記という他者に語ることでストレスから解放されることもある。 「コミュニケーション」という言葉を日本語で表そうとするとすぐに行き詰まる。「伝え合い」「話し合い」「伝達」では真意が伝わらない。「プライバシー」という言葉がなかったように、コミュニケーションという言葉を必要とする風土がなかったからだ。コミュニケーションがないのではなくて、そんな言葉を必要としていないほど、伝わりあっていたのだ。人間関係が欧米では対立だったし、日本では「和」だったことから分かるように、「距離」を埋めるための手段であるコミュニケーションが欧米では必要だったが、そもそも、「距離」のない日本人は不要だった。英語を少し学べば分かるように、「話す、言う」という意味の言葉は“address, 《その国で、言葉の問題はどんなふうにして切りぬけたのですか》。これは実用的な質問のように見えるが、じつは次のようなイデオロギーに係わった断言にほかならない。すわなち、《言葉による以外にコミュニケーションはない》。 ところが、この国(日本)にあっては、表徴作用を行うものの帝国がたいへん広大で、言葉の領域をひどく越えているために、表徴の交換(やりとり)は、言語が不透明であるにもかかわらず、時としてその不透明そのもののおかげで、なおまだ人を魅惑する豊穣さと活発さと精妙さを失わないでいる。 バルトは、言葉を中心とする西洋的コミュニケーションが、実は言葉によって実態を粉飾された、一種の演出に堕していると感じていた。西洋的な表現方法はややもすると、ありもしないものをあたかも存在するかのように魅せる「演技」だと考えていた。これに対し、日本では人間関係が社会的コード(形式や約束事)によって律されている、つまりこの膨大な記号ないし「表徴」に注目して、日本を「表徴の帝国」と呼んだのだった。 本田和子が月刊『日本語学』のある論文で書いていたが、ゼミに行って一言も話さなかった学生が帰りのバスの中でカラオケに一人でのめり込んでいて、そのあまりのギャップが怖かったという。 実はインターネットでも同じようなことがあって、ネット上で饒舌な先生と廊下で会っても挨拶もしない、なんてことがある。ネットで知り合って会いに行ったが、会話が成立しなくて困ったのだが「楽しかった」などとメールが来たという。 会話というのはインタラクティブ(相互作用的)だから難しいのである。しかもその場で対応しなければならない。チャットと違って自分の表情も相手の表情も、場面もコミュニケーションの要素になる。相手や場面というものを考えなければならないのに、自己中心のコミュニケーションになっている人が多い。 「気脈通じ合う」相手にはなかなか巡り合えないものである。他人の気持ちはもちろん、夫婦でも親子でもその気持ちが量り知れず、苦労するが、全てはコミュニケーション・ルールの問題だと割り切るしかない。【…】 私も初めて教授会というやつに出席した時は、議事がまるで頭に入ってこなかった。同じ言語の中にも用語法や獅子テムの違いによって、複数のサブ言語が存在する。いくらシェークスピアを研究しても、ビジネスの交渉はできないし、英語で哲学談義はできても、デパートで買い物ができなかったりする。逆に相手と外国語で話さなければならないにしても、同業者同士は話が早い。大工同士、漁師同士、同じ病気に苦しむ動詞は言葉が通じなくても気脈は通じる。 これが簡単に分かるくらいだったら、学生たちも教師も精神科医も苦労はしない。後に述べるように心や文化の問題であって、言葉の問題ではないことが多いので言語学では扱わない。かといって無視することもできないだろう。 しかし、一般に、コミュニケーション能力というと、日本ではすぐに挨拶がちゃんとできることと答えが返ってくる。議論をまとめる能力である。話を聞くだけでは「情報」しか得られないが、コミュニケーションを繰り返して「知識」として身に付けることだ。相手の話を「翻訳」して理解する能力ともいえる。 会話能力と文章能力(そして、ディベート能力)が違うことはいうまでもない。ネットで雄弁な人と出会ってみたら、ネクラで何も話さなかったなんてことがある。それでもメールで「今日は楽しかった」と書かれることもあるようだ。 文章は時空を超えて相手にしているようなもので反応も間接だが、会話は相手の反応が直接分かるし、反論されることもある。どんなに言葉で自分を飾っても、会話だとすぐに化けの皮がはがれる。なかなか言文一致の人を見つけることはできない。 サン=テグジュペリも口べただったようだ。若い頃、ルイーズ・ド・ヴィルモランという名門貴族の令嬢(花や野菜の品種改良で有名な植物学者のヴィルモランの末裔で、今もヴィルモラン商会がセーヌ川沿いに店がある)と恋に落ち、婚約したのだが、当時危険でならず者の職業と考えられていたパイロットに嫁がせることを親は許してくれなかった。そこで、サン=テグジュペリはあっさりとパイロットを諦め、瓦やタイルを製造する会社の事務員になる。『星の王子さま』に出てくる数字ばかりみている「大人」を続けるのだが、1年で辞める。次に、サン=テグジュペリはトラックのセールスマンになる。パイロットの免許を持っているくらいでメカには強いと楽観していたようだが、肝心なことを忘れていた。口べたで人付き合いが苦手という、セールスマンには最も必要な資質を欠いていて、1年半で売れたトラックはわずか1台だけだったという。この間に深窓の令嬢との熱も冷め、婚約は解消されてしまった。ルイーズは後にアンドレ・マルローの恋人ともなるのだが、『星の王子さま』のわがままな花はルイーズがモデルとされる。ちなみに、うぬぼれ屋は賞賛の書評以外は絶対に認めなかったサン=テグジュペリ自身だとされる。 最近注目されているディベートとコミュニケーションは全く違うものである。ディベートが「ああ言えば、上祐」しか生まないとはいわないけれど。内田樹はディベートは最悪の教育法で、コミュニケ−ションとは何を言っているのかはっきりわからないことを受信する能力だとの持論を持っているが、三砂ちづるとの対談『身体知』(バジリコ)で次のようにいう。 ほとんどのことって、まわりの人の同意や支持がないと実現できないことじゃないですか。議論してやりこめたって、それで計画の実現が早まるということはあまりないというか、ほとんどない。【…】 一時期「ディベート教育」を日本の学校でも導入したらという議論がありましたね。ナンセンスだと思うんですよ。二つのチームに分けて賛成、反対で議論しあうなんて。現場でいちばん大切なのは、相手をやりこめることではなくて、いかにして和解しがたい対立を合意形成にもっていくかじゃないですか。たいせつなのは「論破」することじゃなくて、「説得」することでしょう。【…】 ヨーロッパ的なディベート文化というか、対立をいとわない文化の根には「真理は必ず普遍化する」、「正しい主張はいつかは必ず全員に受けいれられる」抜きがたい真理信仰があると思うんです。でも、ぼくたちはなかなかそういうふうには考えることができない。むしろ、ぼくが前提にしているのは、邪悪なやつは邪悪なままで、矯正のしようがないとあきらめることです。邪悪な人間を正道に戻すというよりは、邪悪なものが及ぼす被害をどうやって最小化するか、そちらのほうにリソースを集中したい。なんだか性悪説みたいですけれど、この非西欧的なリアリズムの根本には「他者は不可知だ」という断念があると思うんです。 コミュニケーション能力として「読む、書く、聞く、話す」という4つの行為の全てが整っていることが大切なのだが、ここでは「聞く、話す」を中心に考えたい。 日本人は英語の能力がないとよく言われるが、これも英語力だけではなく、自己主張の習慣がついてないから話せないことが多い。コンテクスト依存というか、「察し」の文化だから、つまびらかに話すことができないのである。 ただ、こうした議論をすると、すぐに日本は悪い、という人がいるが、日本のコミュニケーションの長所も分かっていてほしい。そうでなければ、工業大国を築くことはできなかったはずだ。例えば藤本隆宏の『能力構築競争』(中公新書)によれば、自動車は多様な部品を微妙に調整しながら優れた製品を作り出す「擦り合わせ型」の生産技術だという。その点で日本の自動車産業の優れた能力があるという。アメリカは標準部品を組み立てるパソコンのような「組み合わせ型」製品が中心だ。だから、どこの国へも技術移転できるのである。日本の「ほうれんそう」(報告・連絡・相談)が悪いとか、「根回し」が悪いとか、という議論ばかりではいけない。新しいコミュニケーションを求めるべきである。 誤解している人が多いが、コミュニケーション能力とは、そのつど政治的に最適な言葉を正しい統辞法に従って語る能力ではない(そのような能力を備えた人はほとんどの場合「私はそのつど政治的に最適な言葉を正しい統辞法に従って語る能力のある人である」という以上の内容のメッセージを発信していない)。 そうではなくて、コミュニケーション能力とは、「よく意味のわからないメッセージ」を前後の文脈から、相手の表情から、音調やピッチから、みぶりや体感から推量する能力のことである。 「言った言わない」とか「そんなつもりじゃなかった」とかいう種類の話が行き交うというのは、当事者間で「誤解の幅」についての適正な相互了解が成り立っていないことの結果である。 それが頻発するようになったというのは、別に社会組織がいきなり邪悪なものになったということではなく、社会人のコミュニケーション能力が低下しつつあることの症候なのだと私は思う。 だから、「自分の身に何が起こり、自分はいまどういう状況の中に置かれているのか」をまわりの人たちに、短くわかりやすいことばで説明できる人は、こういう問題にめったなことでは巻き込まれないのである。 欧米では一歩外に出ると異文化の人と出会うかもしれない。日本だけが例外なのだ。だから、「察し」を期待しては何も生まれてこない。小さい頃からコミュニケーションの訓練がされるし、必要なのである。日本は異文化との接触になれていない。外交でも一人相撲を取ることが多くて、国際聯盟を脱退したり、ポツダム宣言も「黙殺する」といって原爆を落とされたり、ソ連に参戦されたりしている。言葉の上でも外交の上でも島国根性から抜け出さなければならない。 何か事件が起きてもアメリカ大統領のスピーチと日本の総理との演説には大きな隔たりがある。アメリカには「語ることは統治なり」という伝統が残っていて、大統領制はレトリカル・プレジデンシー(レトリック=言葉を効果的に表現する方法、説得力に基づく大統領制)といわれることがある。ケネディ元米大統領にはセオドア・ソレンセンやガルブレイスなどのスピーチライターがいたという。1986年に、大統領の一般教書演説の予定がスペースシャトル・チャレンジャーの爆発事故で吹き飛び、代わってレーガン大統領の追悼演説が行われた。これは飛行士たちが「神の顔に触れた」という詩句で結ばれる歴史的名演説となった。この演説を書いたのがスピーチライターのペギー・ヌーナンだった。演説と同時にスピーチライター名が話題となるのはこの時代からだという。彼女の偉大な演説の要諦は「びっくりするような簡潔さと明快さ」という。日本はやたら長いスピーチか、小泉のようなワンフレーズか、いずれにしろ、コミュニケーションがない。 of the one-liner”(ポケットジョークの達人)と呼ばれた(ボブ・ホープはレーガン嫌いだったようだ)が、「B1なんてビタミン剤だと思った」なんていうのがある。「私は閣議の時でさえ、国家の危機に備えて起きているように命令されている」というのもある。カーターとの選挙戦で「不景気とはあなたの隣人が職を失う時、不況とはあなたが職を失う時、景気の回復とはあなたが職を失う時」とも言って、現職を破った。 その反動もあってか、国際化=英語という単純な図式で考えてしまう。話し相手には色々なバリエーションがあることに気づかない。 実は日本人どうしでも気むずかしい人間からジョークしか言わない人間まで色々なのだが、日本人だから互いに分かってもらえるという誤解がコミュニケーションを妨げている部分もある。 誤解してもらっては困るが、日本語は誤解を招きやすい言語になっている。「適当」「いい加減」「結構」という言葉がそれで、慎重に使わざるを得ない。間違うと「遺憾の意を表する」ことになるが、この「遺憾」も自分の行動を釈明してわびる場合にも、相手の行動に対して非難の気持ちを表す場合にも使われるからやっかいだ。元は「心残りなこと」とか「残念」という意味だが、最近は「自分側の行為をわびる場合にも、相手を非難する場合にも使う」(明鏡国語辞典)ようになっている。2007年10月に73年の金大中事件での日本への主権侵害をめぐり、高村外相に「遺憾の意」を伝えた柳明桓(ユ・ミョンファン)駐日韓国大使の発言に対し、宋旻淳(ソン・ミンスン)外交通商相は「遺憾は遺憾だ」とかわし、韓国政府としての謝罪を意味するかについては明言を避けた。日本は発言を「陳謝」と受け止めたが、複数の関係筋によると、世論を意識して謝罪の印象を薄めたい韓国と、一定の謝罪表明が必要とした日本が、ともに「遺憾」を都合良く解釈することで決着を図ったとされる。当時の情報機関の関与を認める報告書が公表されて間もなく、韓国政府は日本に「遺憾」を表明する方針を決め、日本側に伝えた。世論の反発を恐れて正面からの謝罪を避けたかった韓国は「遺憾には謝罪の意味がある」として、日本は「遺憾」を謝罪、陳謝と受け止めることで暗黙の了解ができたという。まさに玉虫色の決着だ。 残念であるという気持ちを表す。〔自分の行動を釈明してわびる場合にも、相手の行動に対して非難の気持ちを表す場合にも用いる〕---『大辞林』 日本人は対話、特に対立した意見を述べるのが不得手である。自分の意見が通らない会議でいきなり切れて、机をバンと叩いて出ていく人もいる。「あなたの意見には同意しかねるが意見をいう権利は死んでも認めてあげる」なんて人はいない。 それどころか「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」ということになって、廊下で会っても知らん振り。「今の若者はコミュニケーションが下手だ」という大人でも“大人げない”のが多かったりする。逆に自分の意見が通ろうものなら後ろからつっかえ棒が必要なくらいふんぞり返って歩いたりする。 学校の教師というのは他の職業とは違うし、まして、研究者などとなると「自己中」だからある程度は仕方がないのかもしれない。が、それにしてもだ。 マニュアルがあるのではなく、自分に似合う、自分を引き立てるセーターや口紅を選ぶように、言葉も選んでみてはどうだろうということだ。 アガサ・クリスティの『ABC殺人事件』の中で、名探偵ポアロは「会話とは人が胸に隠していることを発見する確かな方法である」と述べている。会話に気を取られて用心のほうがお留守になり、本心がぽろりと漏れるのは多くの人が経験するところだが、あまり難しいことを考えずに、ちょっと気取って、コミュニケーションを楽しむ姿勢が大切だ。 僕自身のことをいえば、コミュニケーション能力が特にすぐれているとはいえない。文章はそこそこ分かりやすい文章を書くことができるが、話すのは苦手である。僕のようなださい人間だって、『カサブランカ』のハンフリー・ボガートのように話したいと思っている。「昨日の夜はどこにいたの?」「そんな昔のことは覚えていないね」「今晩会えない?」「そんな先のことはわからない」("Where 村上春樹の小説に出てくる会話はレイモンド・チャンドラーを思い出させる。『大いなる眠り』(双葉十三郎訳)でフィリップ・マーローが最初にいうセリフは次のようだ(映画は邦題『三つ数えろ』でボギーがマーローだった)。 彼女の目が丸くなった。困ったらしい。考えているのだ顔を合わせてまだ僅かな時間しかたっていなかったが、私にはわかった。彼女にとって、考えることは結局いつも困ることなのだ。 また、いつだってボギーが出た『カサブランカ』を彷彿させる。『ノルウェイの森』の中で緑に「ねえ、あなたってなんだかハンフリー・ボガードみたいなしゃべり方するのね。クールでタフで」と言われていて「まさか、僕はごく普通の人間だよ、そのへんのどこにでもいる」と語っている。レイコには「あなたって何かこう不思議なしゃべり方するわねえ、……あの『ライ麦』の男の子の真似してるわけじゃないわよね」と言われている。 いつも学生の前で話しているから人前であがったりしないでしょう、ともいわれるが、初めて出るクラスの時はやっぱりあがってしまう。大体、年齢が違いすぎる。 講演をするときも、相手が不特定多数だったり、逆に知っている人が聴衆にいるともうダメ。妻にはあがると早口になるので注意しなさいといわれるが、そんな忠告なんかどこかに飛んでいってしまう。地方局のテレビに2年間毎週出ていた(その後は月1回)が、「カミカミなところが魅力」と言われるくらい、ダメなのである。テレビの前で度胸がすわっているでしょう、といわれるが、テレビの時にはカメラに向かって話しているだけで、目の前に見える(つまり、反応が分かる)不特定多数を相手にはしていない。 結婚式のスピーチを頼まれるのも苦手で、承諾する前に「スピーチなしが条件」と確認を取ることにしている。ご祝儀をいっぱいもっていって料理も楽しめなくなってしまうからだ。スピーチがなくて、他人が苦労するのを横目で見ることの何て楽しいことか! ウソだと思う人がいるかもしれないが、女性と話すのが苦手だった。今でも本当に好きな女性とは話ができない。メールのやりとりもできない。妻とはだんだんよく話せるようになってきた。 小中学校と非常に禁欲的な(というか女性と話すのは罪悪みたいな)環境で育ったからだ。だから、本当に話すのは苦手だ。 コミュニケーション能力といっても「聞く」「話す」「読む」「書く」に大きく分けられる。「聞く」「話す」というのが小さい頃から一番慣れ親しんでいるので簡単なはずなのに難しい。「聞く」「話す」は待ったなし、である。「聞く」ことができなければ一方的な話に終わる。「答えは相手の中にある」というスタンスで、いつも相手を認め、相手の話を聴くというのがコミュニケーションの基本だ。もちろん、立花隆のように「いい話を聞くための条件を一語で要約するなら、こいつは語るに足るやつだと相手に思わせることである」(『「知」のソフトウェア』講談社現代新書)という人もいるから、話すも聞くも同じようなものなのである。 これは「聞く」「話す」がソシュールのいう「線状性」をもったものだからである。要するに、「聞く」「話す」はどんどんと流れてしまっていくから元へは戻れないということだ。 「聞く」「話す」は実に難しい。相手の話をちゃんと聞かないで余計なことを言ったり、受けを狙って赤っ恥を掻くなんてことがよくある。瞬間芸なのである。「コミュニケーション感度」というものがなければ、不毛な言葉の交差になってしまう。内田樹はブログで次のように書いている。 私の出す質問や脱線する無駄話の内容だけでなく、こちらの話し声のピッチやトーンや姿勢やテンションの変化といったシグナルを「どう読んだか」ということを見るのである。 コミュニケーション感度の向上を妨げる要因は、つねづね申し上げているように「こだわり・プライド・被害妄想」(@春日武彦)であるので、「こだわらない・よく笑う・いじけない」という構えを私は高く評価する。 そのために要求する条件がだから、「どんな状況もなんとか生き延びることのできる能力」であることはハインラインの『宇宙の戦士』の新兵の選別条件と変わらない。 瞬間芸で思い出したが、「書く」という行為も手紙をやりとりしていた時代と違って、電子メールは瞬間芸になっている。オンラインの場合は特に焦って書くことがある。これは危険だ。《送信》ボタンを押してから後悔することが多い。 日本の文化は「言挙げ」せぬ文化だからである。ヤマトタケルが山の神を退治しようと伊吹山に登ると大きな白い猪に出合う。ヤマトタケルは「この猪は神の使者だろう。今ではなく帰りに殺してやろう」と、わざわざ口に出す。『古事記』はこれを「言挙げ」と記している。実は白猪は神そのものの化身で、その怒りをかったヤマトタケルは大氷雨にあう。おかげですっかり疲れ切り、やがて命を落とすことになるから口は災いの元である。自分の意思を言い立てる「言挙げ」は昔からタブーになっていた。一方、柿本人麻呂は『万葉集・巻13-3253、3254』で次のように歌っている。 葦原の瑞穂の国は神ながら言挙げせぬ国しかれども言挙げぞ我がする言幸くま幸くませと障みなく幸くいまさば荒礒波ありても見むと百重波千重波しきに言挙げす我れは わが国は「神ながら言挙げせぬ国」だが、自分はあえて旅立つ人の無事を言挙げすると歌い、こちらは言葉にすればそれが現実になるという願いをこめて歌った。反歌にもあるように、わが国は「言」と「事」を表裏一体とみる言霊信仰の国だという。言葉には魂があるからこそ、滅多に口にすべきではないと考えたのだ。 また、日本は蔡倫のおかげで紙の文化で書類を信じるが、そんな便利な紙をもたなかった西洋は口頭の文化で言葉を信じる。ところが、その日本も西洋化してオーディションや面接ということが強調されるようになってきた。 シカゴ大学の総長だったハッチンズは西欧文明の精神について「欧米社会の最終目標は対話の上に立つ文明であり、欧米文明の精神とは問いかけの精神であるが、その主たる要素はロゴスである」と述べている。つまり、言葉による意見の交換が重要視され、その中心にロゴスがあると考えるのである。日本人の沈黙は欧米人にとって拒絶、批判、悲しみ、困惑、陰険、不気味などと否定的に解釈される。国際化(=欧米化)の時代に日本人は特別だという訳にはいかなくなった。「沈黙は禁」になったのである。 また、民主主義の時代になって誰もが権威にすがって「背中で語る」という訳にはいかなくなったのである。腕力ではない話力で説得しなければならなくなった。羊羹のような同質化した社会でなくなっているから、異質の人々にコミュニケーションをすることが必要になったのだ。 村上龍『文学的エッセイ集』(シングルカット社)の「コミュニケーションスキルとは?」の中で村上は次のように書いている。 今まで考えられていたコミュニケーションスキルというのは、おもに前述【朝の犬の散歩で出会う人の輪】「集団」の中で「うまくやっていく」ためのものだった。それは、自己主張しない、集団に対する批判をしない、集団の暗黙の規範を順守する、ということではなかっただろうか。【…】わたしたちに必要なコミュニケーションスキルというのは、集団内でうまくやっていくためのものではないのかも知れない。むしろ集団に属さなくても個人的に他人と関わることのできるスキルこそが求められているのではないだろうか。 日本人は似たような言語や文化の中でアイランド・フォーム(島国根性)を形成してきた。小説で「二十二、三歳だろうか」と書いたり、「一応サラリーマンやってます」とか「とりあえずビールから」などと言ったりするコミュニケーションのあり方は何かを直接言うことを避け、ぼやかすことによって人間関係を重視したものだといえる。わざと煮え切らない態度を取ることが多い。いわゆる「半疑問」にしても断定を避け、相手の反論の余地を残した言い方である。開かれたコミュニケーションはコンチネンタル・フォームという。イギリスのG・M・トレヴェリアン(George アイランド・フォームは超論理的であいまいさを持っている。このあいまいさの美学を西欧で初めて発見したのはイギリスのウィリアム・エンプソン(William デボラ・タネンの『どうして男は、そんな言い方 なんで女は、あんな話し方(男と女の会話スタイル9to5)』(講談社)の表を紹介するが、これはコンチネンタル・フォームとアイランド・フォームの違いに近いものがある。 イギリスで労働者階級は限定コードが多く、学校教育では洗練コードが多い。そのため、労働者階級の子女は教育に対して不利が感じられるという。言語による自己主張を発達させるためにも、学校での問題を解くにも洗練コードによるコミュニケーションの方が有利であることはいうまでもない。 驚いたことがある。冷泉彰彦『「関係の空気」「場の空気」』(講談社現代新書)には「ちょっと」などという、ぼかし表現についてアメリカの大学の日本語クラスで教えていて状況が違ってきているという。 昔と違って、いまのアメリカの学生はこうした話法について「無責任で卑怯」などという批判はしなくなった。それは日本のアニメやマンガなどで日本流のコミュニケーションのニュアンスを何とはなしに知っているからであり、また英語圏での会話様式も社会の複雑化に伴って、“Yes,but...”というような「ぼかし」が当たり前になってきているからである。 日本には「以心伝心」とか「気配り」ばかりでコミュニケーションがなかった。河合隼雄は白州正子との対談『縁は異なもの』(河出書房新社)の中で次のように話している。 例えば、日本の学者同士はある水準まで行くとツーカーでわかるんでしょう。ちょちょっというとパッとわかる。すると、弟子はものが言えないわけですよ。それがアメリカなんかへ行くと若造がパッと手を挙げて、すごい馬鹿な質問をするわけですよ。でもそれに対して先生はちゃんと答える。アメリカの大学院へ行って、僕の正直な感想を言うと「何と馬鹿なやつらが大学に来てるか「。その結果、どうですか?学者はみんなアメリカの方が日本よりレベルが高いじゃないですか。これがなぜかというと、どこかでツーカーの世界で溺れているから、無理にでも言語化して戦うところまで行かないということですね。こういう点では、言葉にするということの意味を痛切に感じます。好みとしては嫌ですが、仕方なく関西弁の英語で、言葉にするように頑張っています。疲れますけどね。しかし、言語的に出来た自我というもの、これはすごい強いんです。 哲学者の中島義道は『<対話>のない社会―思いやりと優しさが圧殺するもの』(PHP新書)の中で「わが国では、ウチにおいてもソトにおいても中間地帯としての世間においても、他者と正面から対立する場がない。自分と他者との(微妙な)差異を正確に測定したうえで、その差異を統合しようとする場(ここに<対話>が開かれる)が完全に取り払われているのだ」といって、<対話>の基本原理を次のようにまとめている。 溝口健二監督の「雨月物語」、黒沢明監督の「羅生門」など数々の名作を撮影したカメラマン宮川一夫は「モノクロ映画では黒と白の間に無限のグレーがある」と語った。日本の文化やコミュニケーションはこうした美学から生まれるものだった。 ところが、ボーダーレスになって、「以心伝心」とか「阿吽(あうん)の呼吸」で話せなくなった。日本は「美的コミュニケーション」の文化で西欧は「知的コミュニケーション」の文化だともいえる。つまり、美的コミュニケーションはシンボルの活用によって、相手の想像力に訴えようとする部分が多いからである。 世阿弥のいうような「秘すれば花」という時代ではなくなったのである。相手は異文化だと考えて、つまびらかに話さなければならなくなった。閉じた会話から開いた会話が必要になってきた、つまり、コンチネンタル・フォームを確立しなければならなくなった。だから「男は黙ってサッポロビール」なんていうCMに出ていた三船敏郎も『男はつらいよ:知床慕情』では愛の告白をしなければならなくなった。日本人は結婚前に一度「愛している」と言えば、その言葉が一生続いたものだが、西洋では毎日でも「アイ・ラブ・ユー」と言い続けなければならないのである。 ※ある男子学生がサッポロビールの入社試験を受けたが、無言のまま何も答えない。怒った面接官が「どうしてずっと黙っているんだ?」と聞くと男子学生は「男は黙ってサッポロビール」と発言。この発言で、男子学生は内定をもらったという都市伝説がある。2005年2月に放映されたフジテレビ系列の番組「就職の神様」にて、サッポロビールの人事部長にこの人物の存在を問うたところ、「私はその人物に会ったことはない」と否定された。 共生の時代のコミュニケーションが必要になってきたのである。ぼかし表現が多い日本語であるが、言語のパターンが思考のパターンを押さえつけることにならないとは限らないのである。 日本や中国には『論語』の「巧言令色鮮なし仁」という儒教の伝統があった。『老子』(道徳経)の「無名天地之始」(無名は天地の始めなり)、「多言数窮」(多言なればしばしば窮す)、『知者不言、言者不知』(知る者は言わず、言う者は知らず)という言葉も好きだ。だから、自己主張しない。賢者は黙して語らない。壁に向かって9年間も沈黙を続けた達磨大師の「面壁(めんぺき)九年」はその好例である。黙っていれば恥をかかずにすむ。そして日本語にも「言わぬが花」とか芭蕉の「ものいへば唇寒し秋の風」という表現もある。「初めに言葉ありき」の世界とは太平洋ほどの開きがある。 …日本では長らくこのことわざは、沈黙より雄弁を評価する西洋の一般の価値観と矛盾するとして、なぜこうしたことわざがあるか疑問視されていた。実は西洋は一九世紀まで英国を野損・実質的に銀本位制で、銀の位置・評価は高かった。つまりこのことわざはその発生時点では、一般の価値観どおり沈黙より雄弁の方をよしとするものだった。その後ヨーロッパは金本位制に行くしていったが、ことわざの表現はそのまま残った。一方で、ことわざはドイツからほかの国へ広まり、金本位制の英国から日本へと伝わることによって本来の意味の逆転が生じていたというわけである。特に、多弁を戒め沈黙を最大限に評価する日本では、沈黙が金であることに何の疑いももたれずに、むしろ積極的に取り入れられていったものと推測される。 これが真実かどうか、僕には判断できないのだが、西欧でもドストエフスキーの「大審問官」に対する黙するキリストがいるし、ドイツの小説家のクライストの作品には沈黙を守る群像が出てくるし、マラルメも「最も美しい恋の歌は沈黙だ」と秘教的な、エロチックな意味で語っている。 闇雲な国際化で沈黙が通らなくなってしまったのだ。平川祐弘も『開国の作法』(東大出版会)で「巧言令色」を勧めている。そういう、僕でも滑舌たくみにおしゃべりするのは苦手だし、聞かされるのも嫌なのだが…。 今にして思うに、もしもその年に「他人の話を熱心に聞く世界コンクール」が開かれていたら、僕は文句なしにチャンピオンに選ばれていたことだろう。そして賞品に台所マッチくらいはもらえたかもしれない。 聞くことが大切だった。ただ聞くのではなく内田樹は三砂ちづるとの対談『身体知』(バジリコ)でノイズを聴くのだという。だって、母親が子どもから最初に聴くのはノイズだからだ。 コミュニケーションというのは、「一義的なメッセージが明確な語義を作ってきちんと相手に手渡される」ということではないとぼくは思っているんです。コミュニケーションはそういうものじゃない。だって、コミュニケーション能力が高い人というのは、「何を言っているのかわからないメッセージ」であっても、それをちゃんと「聴き取って」、「返事ができる」という能力なんですから。そこをみなさん、根本的に勘違いしている。そういう人たちは意味がわからない言葉に関しては耳をふさいでしまう。当然ですね。クリアカットなメッセージだけを選択的に送受信する能力をコミュニケーション能力と呼ぶなら、「ノイズ」を聴く力なんて、要るはずないんですから。 本当に大事なのは、他者が発する「ノイズ」を「声」に変換して聴き取るという、強引な力業なんだと思うんですよ。ある種の組織的な関係妄想というか確信に満ちた「勘違い」みたいなものがないとノイズは声にならない。 今までの会話上達法の本の心得は「話し上手よりも聞き上手」というのが多かったが、聞いているだけでは会話にならなくなってきた。話すことも大切になってきたのだ。 スティーブン・スピルバーグ監督がジェームス・リプトンの「アクターズ・スタジオ・インタビュー」の中で最後に行われる「10の質問」で「どんな人が嫌い?」という問いに対して「話に耳を傾けない人」と答え、さらに「天国があるなら、着いたとき神様に何と言われたい?」と聞かれて、「話に耳を傾けてくれてありがとう」という返答をしていた。自己表現を前面に出してコミュニケートしなければならないアメリカでは「聞く」ことの大切さが身にしみてくるが、これからの日本は「聞く」だけではダメで、「話す」ことの重要性が増えてくる。 宮台真司は『絶望から出発しよう』(ウェイツ)で「表出」と「表現」を分けて考えている。「表出」とは発言によって、自分が気持ちよくなること、無責任なおしゃべり、叫びたいことを叫んでスッキリすることを言う。相手に情報をインプットして、相手を特定方向に動機づけるためになされるコミュニケーションをを「表現」と言う。くさいものに蓋をし、あるいは自己の感情を吐露し、やれやれと安心を得る「表出」的思考を批判し、徹底した戦略的思考に立って可能な社会・実効的な政策のあり方を探る「表現」的思考を示している。そして、日本にはそういう思考をもったエリートが市民にも官僚にも政治家にもいないと指摘している。 言いたい放題の人がいる。あんなになれたらどれほどいいだろうと思うが、教養が邪魔をしてしまう。彼らに負けないためにも、ここでは「話す」ことを考えてみたい。 コミュニケーションの基本はインタラクティブというか双方向的なのだが、「話す」といっても、家庭の会話、仲間内でのお喋り、飲み屋などでの雑談、職場の打ち合わせ、会議、討論会、シンポジウム、面接などがあり、あまり双方向的ではないスピーチ、講演もある。 1対1、1対多、多対1、多対多などで違うし、フォーマルかインフォーマルか、一方的か相互作用的か、専門的か調整的か、対立か和解か、短時間か長時間か、伝え合いなのかか楽しむものなのか、などによって大いに違う。 井上ひさしは「話し言葉」を文法諸規則からの距離という視点で、「講演」「談話」「会議での会話」「やや堅苦しい日常会話」「くだけた日常会話」「非常時や感動を表す日常会話」というように分類していて、平田オリザはこれを更に「話し言葉の地図」としてまとめている(『対話のレッスン』小学館などに入っている)。 面接官になるのも難しい。うちの学校は採用の時は30分も時間をかけるのだが、30分で人生が語れるわけがない。そして、30分で相手の人生が分かる訳がない。だから「総合的に判断して…」といって直接的な断定を避けるのである。 面接で淀みなくいわなければならないと思っている人が多いかもしれないが、局アナの面接でもない限り、心配することはない。「すみません、よく考えたら…」と前言を翻しても構わない。 入学の面接をどうしているか、というのは企業秘密でいえないのだが、元気な挨拶をしたのが最初に辞めていったりする。難しい。無理な挨拶は続かないものだ。 編入学生の面接で大笑いしたのが、A先生が「面接でこの子は全然質問に答えてくれませんでした。コミュニケーションがとれないのですよ」と言って落としたことだった。なぜ笑ったかというとA先生自身がコミュニケーション能力がなくて、学生や周囲の先生を不愉快にさせている教師だからである。先日もボランティア同好会の張り紙が学会などの掲示板に張ってあったといきなり電話をかけてきて、怒りまくっていた。もう少し、言いようがあるだろうにと思った。彼が口を開く時は他人に対する文句をいう時しかないのだ。 雪印事件があった時、問題を広げたのは社長の「私だって寝ていないんだ」という開き直った発言だった。こうした談話について、もっと危機管理をしっかりとしないとマスコミの好餌となる。東横インの社長も見事な開き直りだったものだから、マスコミの思うつぼにはまってしまった。 談話の難しさは、聴衆の意識が非常に高い点にある。言い間違いが許されない。そこで話者は逆に緊張して、思わぬことを口走ったり、自分でも予期していなかった行動に出てしまうことがある。 故に、スピーチなどの上達に特効薬はない。緊張に慣れ、たしかな技術を蓄積していく以外に道はない。 大っ嫌いな英語学者に渡部昇一というのがいるが、彼は実に口べたであって嬉しくなってくるくらいだ。ヒトラーのように右翼でアジ演説がうまいのは困る。渡部は「自己中」だから開かれた会話ができないのだ。 100万円くらいの講師料で呼ばれてくる、例えば藤本義一のような講師ともなると同じネタで話し馴れていることもあるし、聴講者の態度が違う。 彼らは「有名人」というだけで満足させてしまうのである。同じ話を他人がやっても満足度は低くなるし、同じ人が同じ話をテレビで行なっても、文章化しても満足度は低い。有名人と同じ空気を吸ったというだけで聴講者は満足していくのである。そして、有名さが彼らの才能を磨き上げるのである。 会議での説得力は僕には分からない。説得力だけでなく人間関係という微妙なものが絡むからで、僕がいきなり格好いいことを言っても冷ややかに見られるだけだ。 一般論をいうなら、具体例をあげるのが勝ちで、感情に走ると負けであると思っている。論敵の真ん前に坐らない方が議論しやすい。でも、結論が先にある人もいるから困る。 羨ましいのは女性の場合で、マリア様のような言い方で発言されるとみんな納得してしまう。そんな人に前もって「どう思う?」なんて密かに根回ししておいた方がいいかもしれない。 結婚式のスピーチなど断りきれない場合は、準備をしよう。誰もがいいそうなスピーチで、「サン=テグジュペリは愛とは見つめ合うことではなく、同じ方向を向くことだといいましたが…」みんな聞いたことがあるような言葉を持ってきても心を打たない。自分しか知らないエピソードから結婚生活へのアドバイスにつながっていけばいい。 コミュニケーションはしばしばテニスの試合に喩えられる。お互いに出し合ったボールを変化をつけて返す、それをまた跳ね返すことでコミュニケーションが成り立っているはずだ。シェイクスピアはその点、実にうまい。会話ではないが、「美徳とは美しいもの」と言ったすぐ後に「だが、美しい美徳もあるらしい」とつなげることで際だたせる(『十二夜』第3幕第4場)。 はずだ、というのは日本のコミュニケーションは往々にして一方通行でボウリングをやっているようなものである。お互いがストライクを狙うだけで、返球がない。中には別々のレーンで勝手にボウリングの球を投げているだけということが多い。“dialogue”が大切なのに“monologue”にしかなってなくて、これで建設的な話し合いが生まれるはずがない。 野球が好きな人にはキャッチボールといった方がいいかもしれない。「結婚できない男」(2006年夏)というドラマがあったが、結婚できない理由はまさにコミュニケーション不完全症候群だった。「いや」「でも」「それは」なんていう、自己チュー男でしかなかった。退院する育代を病院前で見送った早坂夏美(夏川結衣=医者)は、桑野信介(阿部寛=建築デザイナー)にみちるの部屋で言い合いになったことを謝ると次のように言って思いを告白する。 「私たちの会話ってキャッチボールじゃなくてドッジボールばっかりだった気がします。私はキャッチボールがしてみたいです。あなたと」 質問すればいい、というものではない。返球のしやすいように質問することが大切なのだ。斎藤孝は『質問力』(筑摩書房)の中で「自分の一方的な興味だけで聞く質問は、相手にとって苦痛以外のなにものでもない」という。 この国の作家は、古来から、多くは感性地獄におちいっている。言葉を空に投げているだけで、キャッチボールができにくいのである。 相手の立場でものを考え、自己を拡大して他者を取り込むという傾向のある日本的な精神風土では、自己に対立するものとしての他者(相手)の意識が当然のこととして希薄になる。日本人には真の対話がないとよくいわれるが、対話とは元来、求心的に収斂する固い自我をもつ者どうしが、自己に拮抗し、対立する他者との意見の調整を図り、利害を調整する機能を果たすものとしての言語なのであるから、相手を自己の立場の原点としてのみ考える拡散型自我構造をもつ日本人には最も異質なものである。 返球がない、という意味では座談会も返球がない。座談会というのは日本独特のコミュニケーションの形式である。ある人の発言や質問に対して参加者が応えるでもなく、補足するでもなく、好き勝手に意見を述べて、思わぬ展開が面白いとされるが、誰も整理しないで話しているなのだ。 「コミュニケーションの基本は挨拶だ」という言い方がある。こんなことをわざわざ言うのは日本社会特有の現象かもしれない。日本社会は挨拶から始まり、挨拶で終わる。中身が何もない株主総会のようなコミュニケーションが多い。手紙にしろ、時候の挨拶から始まって、終わり方も大仰だ。 talk)と呼ばれることもある。情報を伝えるというより、共感・好意・社交的な雰囲気を表現したり作り出すための言葉を指した。コンタクトが成立していることを確認するメッセージである。つまり、あまり意味のない、人付き合いのコミュニケーションに分類している。だから「暑いですねぇ」というのに「今日は太平洋高気圧が強くて午後2時頃からフェーン現象で35.8度にはなりそうですね」などと情報で答えてはいけない。だから、井上ひさしは『にほん語観察ノート』(中央公論新社)で「交感的」に「なんでもない」「さりげない」とルビを振っている。 【…】レヴィ=ストロースを信じるならば、コミュニケーションの本義は、有用な情報を交換することにあるのではなく、メッセージの交換を成立させることによって「ここにはコミュニケーションをなしうる二人の人間が向き合って共存している」という事実を認知し合うことにあるからだ。そして、私の前にいる人に対して、「私はあなたの言葉を聞き取った」ことを知らせるもっとも確実な方法が相手の言葉をもう一度繰り返してみせることであるとすると、心からコミュニケーションを求め合っている二人の人間のあいだでは、「相手の言葉を繰り返しながら」「ほとんど無意味な」挨拶が終わることなく行き交うことになるはずである。 ヤクザの口上をはじめとして、日本人が挨拶を強調するのは日本文化が型の文化だからである。型を作って互いの位置を確認しないとコミュニケーションが始まらない。特に長幼の序というか、相手の年齢を知らなければ話ができない言語なので、面倒である。面倒だからと端折ると「挨拶も知らない奴だ」と言われる。 先輩・後輩などと絡まって日本語の敬語は難しい。二浪して入った同級生と話している時に彼の高校での同級生や一つ後輩が話しに入ってくるとややこしいコミュニケーションになってしまう。 それに、尊敬してない人に敬語を使うというのもむずかしい。だから、敬語は自己責任だと考えてしまえばいい。僕は女子学生に「先生、お食べになりますか?」と言われるよりは「先生、食べる?」と言われた方がうれしい。二人の距離の違いとか、状況がいろいろだから、この敬語と決めつけることはできないのだ。 挨拶で思い出すのはギリシャ神話のエコーである。森の妖精エコーは大神ゼウスが女性にちょっかいを出す時に妻のヘラが目を光らせると困るので、エコーにずっと話をするように命令したのである。同じことを繰り返せばいい、といわれたのでそうしていたのだが、ヘラがゼウスの魂胆に気づいた。怒ったヘラはエコーから普通の会話の能力を奪ってしまった。 この仕打ちを受けた後にエコーは美青年ナルキッソスを知る。恋の告白をしようとするのだが、同じことを繰り返すだけで、「お前なんか嫌いだ」といわれるとそのまま「お前なんか嫌いだ」と返してしまった。それでもエコーは恋し続け、悩み続け、最後には身も細り、糸のようになり、やがて消えてしまった。エコーが「こだま」の語源になったのはいうまでもない。 「お前なんか嫌いだ」といっても、「好きだ」という意味で言えるのが人間コミュニケーションの面白いところである。チェーホフも「熊」という短い芝居で熊のようにむくつけき男が亡夫の借金を取りに来て、決闘ということになり、ピストルの使い方を教えているうちに懇意となって「手をはなして!あなたなんか…大嫌い!決闘よ」と言いながら長いキスとなるというコメディである。 日本人の中にも、なかなか口を利けない人がいることは確かだ。急に挨拶できるものではないし、そのために小さい頃からの訓練だというのだが、挨拶くらい、サービス業に入って訓練すればすぐにできるようになる(ファミレスで「いらっしゃいませ、こんにちは」というのは「いらっしゃいませ」だけか「こんにちは、いらっしゃいませ」というべきかもしれないが)。 心のこもらないマニュアルどおりの挨拶なんか誰でもできるはずだ。井上ひさしの『にほん語観察ノート』(中央公論新社)にJR東日本の接客六大用語が紹介してあって、「商業敬語」と呼んでいる。 ただ、内向的な人に挨拶をしろ、といってもなかなかできないことも確かで、そんな人に「お前は間違っている」と迫るのは如何にも体育会系の貧困な発想だ。 良いことをさせているのにどこが悪いと反発を受けそうだが、しつけとして「あいさつ運動」に取り組んでいる学校にはどうも違和感を覚える。 僕がいきなり「らっしゃーい!」なんて挨拶できるはずがない。したとしてもそれは“うわべ”だけのものになる。 しかし、心のこもらない挨拶といってもその精神的な負担は大きい。彼らはサービス業の人はどんな顧客に対しても「心をこめて」笑顔で接することを強いられている訳で、アメリカの感情社会学者(sociology work)と呼んだ。19世紀の工場労働者は「肉体」を酷使されたが、対人サービス労働に従事する今日の労働者は「心」を酷使されている、という。現代とは感情が商品化された時代であり、労働者、特にサービス・セクターや対人的職業の労働者は、客に何ほどか「心」を売らなければならず、したがって感情管理はより深いレベル、つまり感情自体の管理、深層演技に踏み込まざるをえない。それは人の自我を蝕み、傷つける。しかも、そうした「感情労働」を担わされるのは主として女性であるという。 ちなみに、アメリカはお世辞の国である。アメリカ人があなたの能力を誉めたら、そのまま素直にとってはいけない。逆に、日本人は謙遜しすぎる。「愚妻」だからとMy ※2004年に画期的な判決が出た。入院患者の身の回り世話する介護員が1年の雇用契約の更新を続け4年3カ月間働いていた。ところが、02年6月、病院側から「笑顔がない」「不満そうなオーラが出ている」などを理由に、契約の更新を拒否された。判決は、女性が契約更新を重ね、同病院の4割以上を占める介護員がいずれも契約職員であることなどから、「実質的に期間の定めのない労働契約と異ならない」と判断。病院側が更新を拒否した理由について「女性にとっては過酷で、著しく合理性を欠く。更新拒否は権利の濫用(らんよう)で無効」と結論づけた。 挨拶は世界共通だと思っているかもしれないが、必ずしもそうではない。ウソだと思ったら英語で「行ってきます」「ただいま」とか、「いただきます」「ごちそうさま」とか、「起立、礼」とか「よろしくお願いします」ってなんていうか考えてみれば分かる。日本人が「頑張って」というところを彼らは“Take 僕が世話をしている留学生の間でも挨拶でトラブルになることがある。イスラム教徒の学生は何かをしてあげても「ありがとう」とはいわない。挨拶も知らないということになる。実際、僕も日本語弁論大会の指導をしていて優勝した次の日にまるで感謝の気持ちを述べられないことが多々あった。挨拶するべきだと教えるべきかどうか教師としては迷うところだが、そういうことがありうる。 これはイスラム教などに「喜捨」という考え方があって、富める者が貧しい者に施しをするのが当然と考えられ、施しができる者の方が施しをできることをアッラーに感謝しなければならないのである。もしかしたら、世話をした人が「ありがとう」といわないのはおかしい、と考えているかもしれない。 一ノ瀬恵(呉人恵)の『モンゴルに暮らす』(岩波新書)の「文化をうつすことば」の章に「『ありがとう』と言わない重さ」という文章がある。モンゴルの人は「ありがとう」という意味の言葉(バヤルララーと言う)をあまり使わない。なにかこちらがした場合、モンゴルの人はその行為を淡々と受けるままで、そしてこちらが行為をしたことを忘れた頃、そっと恩返しをしてくれるのだそうだ。モンゴルの人は日本人と違い、言葉でお礼を言うのではなく行動(つまり恩返し)によって感謝の気持ちを示すという。 冗談関係は互いに、または一方的に相手をからかい、中傷することや、普通なら無礼とされる行為が許されたり、期待されたりする関係で『大辞林』には「互いに揶揄(やゆ)や卑語を交わしたり、相手の物を盗んだりすることが許されている関係」さえ書いてある。親族間の「祖父母と孫」「オジとオイ」「義兄弟」などが冗談関係になる。直接的ではなく、ワンクッション置いた関係である。そのため、冷やかしたり、からかったりしてもお互い怒ったりしない余裕ができてくる。フランス語で“Mon oncle”(私のオジサン)という言い方があり、ここから伊丹十三は『モノンクル』という雑誌を出していたことがある。親子のような緊張関係にないから、さまざまな相談に乗れることになる。 忌避関係は特定の関係のある相手との接触や会話が相互に、または一方的に禁じられている場合をいう。例えば、ウガンダのニョロ族では娘の夫は妻の母に直接話しかけることができないし、食事を共にしたり、顔を合わすことも許されない。つまり、コミュニケーションが最初から成立するという前提は成り立たないのだ。多くの場合、「話しあえば…」というのは妄想なのだ。 僕は視力があんまりいい方ではないから、前に会ったことがある人か失念してしまうことが多い。新任の課長を3カ月ほど非常勤か何かと思って挨拶しなかったことがある。挨拶するきっかけを失うともっと挨拶ができないことがある。そういう時は新校長が土曜日に図書館前でウロウロしていたのを「こらっ!」と叱った寮監のことを思い出すことにしている。 それでも一人では生きていけないのだから、最小限の挨拶ができなければならない。フランスのカフェに入って注文したときに、丁寧にしたつもりだが、聞いてくれないので変だと思ったら“Dit そうはいっても、体育会系のあの、脳天気な挨拶にはついていけない。僕は拓殖大学のすぐ横に下宿していたのだが、校門の前でいきなり数人が横にまっすぐ並んで「オス、オス、オス……」と挨拶していく光景をよく見た。先輩が通るから整列していたのだが、日本人として恥ずかしかった。キャンパス内にも「押忍」(これで“オス”というんですね)という石碑もあった。先輩は校門をくぐると会釈してから中に入った。その後も講義で先生に挨拶をして、しっかりと勉強しているのならば微笑ましいのだが、カンニングによる停学処分者の多さなどを見ていると、そうでもないようだった。宮中年賀の時期には「他大学の学生ともめ事を起こさないように」という張り紙もされたが、目上の人を敬うからといって、全てが許されるのではない。 挨拶は基本だが、あんな風に挨拶することを強いる社会にしてはいけない。「慇懃無礼」(“いんぎんぶれい”=うわべは、あくまでもていねいで、実は尊大であるさま)ということも多いからである。 挨拶を強要する人には気をつけよう。挨拶を強いることで自分の立場を強調している人間も多いのだから…。 と言いながら僕も教師の端くれ。学生に注意して「タメ口」(対等な言い方)で答えられると「何だ!その言い草は!」と叱って、挨拶の段階でもめ事になってしまい、肝心な叱った内容まで話が進まないことがある。 日本の学校の英会話は挨拶ばかり教えているような気がする。挨拶のパターンは一つではないのに型で教えているような気がする。だから、ワールドトレードセンターでケガをした人に“How アメリカ式にするのだったら、こんな挨拶はないだろうし、日本式だったら、何も英語を使わなくてもいいのではないだろうか、と思った。 4カ国語が話せてIQ200で知られる中国の朱鎔基首相は日本からの客には会いたくないと言っていたという記事を読んだことがある。日本人は挨拶が長くてしかも無内容だからである。アメリカ人はすぐに用件を話すから会うという。実際、日本の大臣が長々と挨拶したのを通訳が一言、“Ladies Regrets)というスタンダード・ソングがあるが、「奥様、ミス・オーティスは残念ながら本日はお越しになれないとのことです」という歌詞から始まる。徐々に分かるのだが、恋人を撃ち殺して警察に連行され、激昂した群衆によって監獄から引っぱり出されて柳の木に吊されてしまった、という内容なのである。 挨拶は祝詞のようなものが一番いいと思ってはいけない。相手に伝わらなければ意味がない。それなのに、無意味な言葉を行き交わせることに喜びを感じる連中がいる。こんなコミュニケーションを繰り返していたら日本人は世界から取り残されるだけである。 型に終始するコミュニケーションだから、内容が伴わない。挨拶というのは通信プロトコル(元々、外交上の典礼などを指した言葉)と同じで、一緒の土俵に乗って、これから話をしましょうね、という機能しかない。プロトコルに則って内容を深めなければならない。 政治家のように相手の立場も考えずに「以上、簡単ではありますが、ごあいさつに代えます」などと長い挨拶をするようになってはお終いだ。 相手を気遣った、気の利いた言葉が一つでも言えればいい。わずかに相手の立場になって考えるだけでいい。ロバート・アルトマン監督の『ザ・プレイヤー』という映画で遣り手のプロデューサーのティム・ロビンスが脚本家がアイデアを持って来たときに必ず言う。「25語で」。つまり、30秒くらいで言えないような映画は魅力がないということだ。 会議で長々と感想を述べる人がいるが、「時間泥棒」だと思う。60人の会議で1分余計に話せば1時間分みんなから盗んだことになる。会議について内田樹は次のように書いている。 相手構わず喋り続ける人がいる。自分の知っている限りの「御託」を並べる人もいる(「お前も今ここでやっとるやないけ」と言われそうだが…)。 言葉は難しい。「腐っても鯛」という言葉があるが、下手に使うと「オレは腐った鯛か」なんてすごまれるに決まってる。 僕自身「藁をもつかむ気持ちで先生のところに…」と言われると「僕は藁ですか〜」と言いたくなってくる。「卒業パーティに出て下さい。枯れ木も山のにぎわい、ですから」と言われると「中年になって枯れて来ましたからお酒は…」と断ってしまう。 「ずいぶん偉くなったね」という言葉も恩師が言ったならば素直に聞けるが、同僚だと嫌味でしかない。 落語の「かつぎや」も同じことを違う意味で取る話である。呉服屋の五兵衛が食べていた雑煮の餅から釘(が出てくる。番頭がすかさず、「餅の中から金が出て、ますます金持ちに」と言ったので、縁起を気にする五兵衛は喜んだ。よせばいいのに飯炊きの権助が「金のなかから餅が出たなら金持ちだべえが、餅のなかから金が出たとありゃあ、いやはや身上もちかねる」と混ぜっ返して…。 昨日「きれいだね」といって今日も「きれいだね」というと「この人はただの挨拶で言ってるだけなんだ」とか「昨日よりも髪の毛もスーツもお金をかけているのに見る目がない」なんて思われかねない。言葉を一度いうのと繰り返すのでは意味が違ってくる。「今日はきれいだね」というと昨日はきれいじゃなかったのかといわれそうだ(こうした「は」を文学理論でノイズということがあり、ノイズによってきちんと通じないことがある)。 セクハラも同じで、同じことをXの女性にいってもセクハラにならないが、Yの人にはセクハラになることがある。また、Aの人がいってもセクハラにならないが、Bの人がいうとセクハラになる。そりゃ、当たり前で、セクハラが嫌だったら、誰も結婚できなくなる。 鬱病の傾向のある人は、といっても現代人の多くがその傾向が強いが、特に言葉に引っかかりやすい。鬱の傾向のある学生たちを扱うのはとても難しい。 極端になると「きれいだね」といっても「じゃあ、今まではきれいじゃなかったの」とか「顔を誉めたんじゃなくて、スーツでもなくて、このブローチのことを言ってるんだわ、嫌みよ」とか「全然そうではないのに偽善者だわ」とか「美辞麗句で私を陥れようとしている」とか、ネガティブな考えを心の中で何度も反芻してしまう。この場合は比較級で話せ、という人もいる。「今日はまた一段と…」という言い方が正しいという。 鬱々としている人に「がんばって」なんていうのも禁句だ。「あるがままに生きればいいんだよ」なんてことをさりげなく言えれば最高だ。でも、とても恥ずかしくていえなくて「まあ、まあ、とにかくなすがママに、きゅうりがパパに」なんて駄洒落で誤魔化してしまう。 かといって、何も話さなければ傷つけないということもない。だから、人を傷つけないようでいよう、とあまり思いこまないことだ。お互い人間なのだから不可能なことを願っても無理だ。いや、自分自身、人間なのだから、調子の悪いこともあれば、心の風邪にもかかる。 後で傷ついたと言われたら誠心誠意で謝ろう。どこでどう誤解されているか分からないものだ、ということは肝に銘じておかなければならない。 木下順二の戯曲『夕鶴』ではつうが与ひょうのいうことが分からなくなる。愛する人の言葉があんなにも分かったのに、突然通い合わなくなる。二人の世界が違ってしまったのだ。与ひょうは「あの人たち」と同じ強欲の渦巻く世界に行ってしまった。あっけにとられた与ひょうが「おい、どうしただ?つう……」と呟くばかりなのだが、この一言だけが光のように、つうの体を貫く。 最もよく言葉を使う職業の一つである医者に、そのことを忘れている人が多い。不安を抱いているからこそ病院に来ているのに、結果を言わなかったり、見通しを話さなかったり、(責任逃れということもあるのかもしれないが)最悪のケースを事務的に語ったりする。そして、患者やその家族をパニックに陥れる。強圧的ではない方がいいが、あんまり「そうだなぁ」なんて繰り返す医者も不安だ。 教師もそうかもしれない。かつては尊敬される存在で、何を言っても許される、例外的な立場にあったが、今は違う。子どもたちは対等に話してくるし、いや、それ以下に扱う場合もあって、難しい。うっかり冗談でもいおうものなら、親から抗議がきかねない。 新聞や雑誌の「心の相談室」で日本人が一番多くする質問が「人とうまくコミュニケーションができない」というものだ。さらに「自分の心をすっかり打ち明けてとことんまで話のできる相手が誰もいない」という悩みが大きな比率を占めている。 確かに本人にとっては深刻なのだが、まず、他人と理解し合えるかということに関しては、あまり期待しない方がいいと思う。相手は自分ではないのだから、どれだけ話しても理解してもらえることは少ない。「分かり合える」というのはテレビ・ドラマか小説くらいに考えておいた方が気が楽だ。 それでも、努力を忘れてはいけない。色々なものを読んだり、見たり、聞いたり、そして表現してみてコミュニケーション能力を高めなければならない。同じことをいうにも相手を楽しくさせたり、次から次へとコミュニケーションが発展していく可能性もある。 自分を高めておけばいつか自分を理解してくれる人が出てくるかもしれない。分かり合えなくても話していると気持ちが高揚する関係というのがあるはずだ。僕の場合は、いつかお姫様?がと思って待っていたが恵まれているとはいえなかったが…。 心理学を学ぶためにてっとり早い方法はシェイクスピアを読むことだ。「心のともなわぬことばがどうして天にとどこうか」(『ハムレット』第3幕第3場)などという背景を知るだけで、人生も豊かになってくる。 心療内科医の明橋大二『輝ける子』(1万年堂出版)は相手の心を開かせる大切なポイントとして次の三つを挙げている。何よりも「相手の力になりたい」という気持ちが大切だという。 2)サンドイッチ法=相手の悪いところを伝えようとする場合は、必ず相手のよいところで前後を挟む。 4)相手の問題は相手から言ってもらう=何か相手に欠点があったとしても、こっちからは言わない。自分から言ってもらうように話を進めていく。こうなるのは何か事情があるはずだと伝える。 哲学者の土屋賢二はまず人間関係を円滑にするには愛が必要だという。そして、「謙虚な態度」も必要だという。 威張る人間や傲慢な人間を見ると、「どこにそんな価値があると思っているんだ」と考え、幼児並みの自己認識しかもっていないと軽蔑する。 自慢ではないが、わたしは謙虚な点では人後に落ちない自信がある。とくに自分に価値がないことについては絶対の自信をもっている。周囲の人間が、どれだけわたしを無価値な人間として扱っているか、見てもらいたい。こういう境遇にいれば、だれでも自分に価値があるとは思えなくなるのだ。当然、わたしはどんな人を見ても軽蔑したことがない。ただ一つ、どうしても許せない人間がいる。それは威張った人間、他人を見下す人間である。何の根拠があって偉いと思っているのか。お前は何様なのか、と思う。わたしが妻を許せないのはそのためだ。 「塵一つでも目は痛む、心の痛みも同じだ」(『ハムレット』第1幕第1場)というのはよく分かる。しかしながら、最近では「あなたの言葉に傷ついた」というのが黄門様の印籠になっている部分も否めない。 家族でも学校でも職場でも人間関係が濃密であればあるほど、色々な人間模様が生まれてくるのだが、細部にこだわっていては前に進めないことがある。それに親や教師としては当たり前の言葉でも傷つくといえば許されると思っている人が増えている。中には子どもの頃受けたトラウマを特権的に考え、それに甘えているのではないかと思う人もいる。残念なことに人が生きていくうちに傷つかずにすむことなどない。傷がついても癒されることもあるし、忘れていくものである。親がかまってくれなかったことがトラウマになっているという人もいるが、昔の子沢山の時代には誰だってかまってもらえなかったし、ほとんどが不幸な育ち方をしていた。だけど、それで社会がひどく悪くなったということはない。傷ついてもお父さんの出張の土産だけで機嫌が直るような時代だったのだ。その意味では豊かすぎる社会は不幸だ。 傷つくのはもっぱら人間関係においてであって、仕事のほうでは傷つくとはいわず、「挫折」である。そして人間関係の中で傷つくのは言葉によってである。人びとの言語感覚が繊細になったのか、それともコミュニケーションが盛んになって、言葉を交わすことが多くなったせいか、言葉で傷つくというケースがふえている。【…】 こうしたなかで、人間同士のふれあいの面で、傷つくのがいやだから、人に対しても傷つけまいと心的な距離を置いて接触する傾向も出てきたようだ。ふみこめば傷つけ、傷つけられる、それよりも垣根をへだてて、それ以上は入らず、入らせずといった接し方である。 これをスマートなつきあいというのだろうが、距離を置いた交際では本当の友人はできない。あまりに傷つきやすい過敏症になるとたった一人か二人の親友さえも失うことになる。【…】 総じて、わたしたちは、傷つくことを恐れすぎているのではあるまいか。言葉に「傷つく」ということは、多くの場合、受け取る側の心が狭くなり、ゆとりを失っている場合に起こるようだ。 ゆとりを持ち、ユーモアの精神があれば、些々(ささ)たる言葉尻にいきり立つこともなく、少々の毒気のある言葉も軽く毒抜きをしてユーモアにくるんで相手に返せるだろう。 言葉にいちいち傷ついていたは、とてもこの世はしんどくて渡れない。毒抜きのユーモアという生活の知恵を養いたいところである。 the cuff”というが、これはスピーチの案が浮かぶと袖口にメモしておき、それを見ながら即興的にスピーチをしたことから言う。なお、テーブルスピーチというのは和製英語で、食後に行うのが普通で“an 僕はいい加減なことを話していると思われるが、講演だと一応メモを用意している。全体の流れだけでも書いておく。場合にはジョークのヒントを書いておく。せっかく考えたのに使わなかったら(受けなくても)損だ。 会議の場合でも話すことはメモして話す。そうしないと大事なことを忘れるからだ。といいながら反論がうまくできないこともある。 中には手を震わせながら話す人もいたが、話にまとまりがなくて、一つの言葉に引っかかってそのまま傍流の話になり、訳の分からない話になってしまう。その人が発言しはじめると会議がざわめいた。 O校長にいきなり呼ばれたことがあった。また何か叱られるのかと思って校長室に行ったら、雑談が始まって訳が分からなかった。 結婚式のスピーチをしなければならない場合も家族で練習をしておけばいい。ただ、こうした決まり切ったスピーチは自分の前に同じ事をいう人がいるので、そのために別の内容も用意しておいた方がいい。 僕もPTA会長として幼稚園児に入園式の挨拶をしたことがある。園長が僕とほとんど同じ内容の話をしてしまったので、メマイした。慌てて違う話に替えたのだが、冷や汗ものだった。 コミュニケーションというのは海に中に沈んだ深い、深い内容があって、その上澄みとして可能なのだ。 僕は読んだ本の印象に残った部分は書き写しているし、引用しながらエッセーも書いている。そうすることによって、知恵袋が少しずつ増えていく。 ネタを多くといっても生半可な知識をひけらかしてはいけない。「ミシェル・フーコーはね…」などと会話の風向きを考慮しないで話すとイヤミだ。 外来語を多用するのも恥ずかしい。相手構わず、という人がいる。映画字幕の清水俊二さんは「ラジオ」と「テレビ」以外の外来語は使わなかったという。 使わざるを得ない場合もあるが、その場合は「インフラっていうか、社会基盤整備がね…」などと言いかえるようにすべきである。 例えば、「私は陸上部に入っていたのですが、人よりも持続力がないものですから、同じグラウンドを一周する時でも、他人よりも10メートル、外を走っていました」などと具体的なエピソードで語れるようにしなければならない。 相手が自分のことを知らなければ幸いである。「高専」がマイナーなら「就職に時間を取られて大学は3年制、短大は1年制と呼ばれていますが、高専は4年間みっちりと学べます」とか、「商船」がマイナーなら「全国で5校しかなくて日本海側ではうちだけです」「関西から北海道まで色んな学生がいます」とか、「船の学校」だと思われたら、「私は情報なので別に船に乗るわけではないのですが、オリエンテーションの時に練習船に乗って富山湾を一周します」「カッターレース大会の時はクラスでチームを出しますが、オールっていうのはバランスを取るために鉛が入っていて重いんですよ。そして、ちょっとでもリズムに乗らないとオールを波に取られて迷惑をかけたり、流されたりもします。根性とチームワークだけはついています」とか話せばいいのだ。 若い頃は「おどしっこ」ということをよくした。つまり、お互いに相手の知らなさそうな話をして、おどかすのである。『ガリバー』を書いたスウィフトは「誰でも知性の足りない分だけ、ちょうどそれだけの虚栄心をもっている」と言ったが、知的虚栄心というのは、ある程度必要なことである。 クリエイティブ・シンキングとクリティカル・シンキングの二つのタイプがあることを念頭に入れておこう。話をしていて、「例えば…」と言える人が前者で、「そもそも…」という人が後者だ。前者はアイデア倒れになることがあるが、後者のように批判ばかりしていて何も対案を出さない人よりはましだ。アイデアマンはつっこまれるのが苦手で「ちょっと言ってみただけ」と引っ込んでいくことがある。これを押しとどめてアイデアを膨らませることが大切なのだが、なかなかむずかしい。 自己表現のためには日記をつけたり、自分史を書いたり、自分を発見しなければならない。日々の努力を抜きに、急にうまく話せるはずがないのである。 日記や文章を書くのは自分の考えをまとめるためである。「要するに」と言いながら10分も喋り続ける人がいるが、こうならないための対策である。 僕のホームページを読んでいる人は、僕がサービスで色々と書いていると思っている人がいるかもしれないが、自分の考えをまとめているだけなのである。備忘録を読まされているだけである。他人に優しくするほど善人ではない。 忘れてはいけないことは、ネタは新鮮でなければならないということ。ブレア首相の話をすべきなのにチャーチルなんて言ってはダメだ。 そして、何よりも、伝える技術よりも伝える内容がなければ、コミュニケーションは成立しないことを忘れてはいけない。どう伝えるか、よりも何を伝えるか、である。英語ばかり磨いて、伝える内容のない人になってはいけない。 アラビアのロレンス(T・E・ロレンス)がイギリス人に与えたアラブ人と上手につきあうためのアドバイスには「アラブ人の前では女性の話をするな」というのがあった。自分たちにとって何でもないことが相手にとって露骨なように感じられることがあるからだ。 避けるべき話題というのがある。食事なら宗教、政治を避けるべきだし、スカトロ系もよくない。ネタが豊富だからといって何でも言っていいのではない。「わが仏、隣の宝、婿しゅうと、天下の軍(いくさ)、人の善悪(よしあし)」という狂歌があって、これは茶席に合わぬ話題を並べたものである。宗教、貧富、家庭の事情、政治、人物評などは避けるべきだということだ。飲み会に言いたい放題で批判してくる人もいるが最低だ。「飲みニケーション」などと悦に入っているからおめでたい。「酒の席だから言うが…」というのだが、「酒の席だから」避けてほしい。 もう一つ、教師にありがちのタイプだが、会議の席で怒鳴ったり、説教をしたりする輩がいる。議論の場なのに、自分の思いを朗々と語って恥じない人間がいる。 ホームページを持っていてただ、一つだけ困ることがある。「ホームページを読んでいます」という人にどれだけ話をすればいいのか迷うのである。書いてあることは話せない。とはいえ、書いてあることを全て知っている訳ではない。さぐりを入れながら話すしかないのである。新しい知見を述べるのが一番いいのだが、それほど手持ちがない僕のような場合には困ってしまうのである。 内田樹は初対面だけれどホームページで知り合っている人たちとの出会いについて、名刺の交換もなく会話が始まる、といって、次のように書いている。 けれども、今回の集まりではホームページで自分のことをみんな書きまくっているので、そういうパーソナル・データは周知のことであり、それどころか「今週のホームページで熱を入れて論じていたこと」も熟知している。そして、そもそもそこで論じられている問題についての接近の仕方に「共感」したがゆえに、いまこうして集まっているわけだから、話がいきなり核心的なものになるのは当然である。 それぞれの「持説」はホームページ上で繰り返し開陳しており、お互いにそれを読んで来ているわけだから、このオフ会の現場では「持説」をもう一度繰り返すことは礼儀上しにくい。 私たちがおしゃべりをしているとき、相手に「得意の持ちネタ」を聞かされると、「退屈だな」と思うことがある。いままでに何度となく色々な人に話し聞かせてきたせいで、すっかり手垢のついた(あるいは話芸として「完成に近づいた」といってもよい)「ストック・ストーリー」を聞かされているとき、私たちは「あ、これは出来合いの話だな」ということがなんとなく分かる。 この場でのこの出会いのなかではじめて口にされた言葉、私が対話の相手であったからこそ選ばれた言葉、その言葉の生成に聞き手もまた関与しているような言葉。それを語り、それを聴き取るために、私たちは対話の現場にいる。 全員が舞台に上がるや、いきなり「新作」の即興演奏を求められているようなものである。おそらく、その心地よいストレスが、昨夜の絶妙なインタープレイを生み出したのだろう。 講演でもスピーチでも、普段の会話でも同じだが、ネタがあるからと言って何でも話せばいいものではない。簡潔に話すことも大切で、沈黙が金でもないし、饒舌が銀でもない。 外国語を話していると馬鹿になったような気がすることがある。脳の能力を外国語使用に回しているからで、ちょうどパソコンのアプリケーションを同時に開きすぎると処理速度が落ちるのに似ている。だから、プログラムは簡潔な方がいい。 バートランド・ラッセルはふだんはなるべく平易な言葉を使うとどこかで書いていた。哲学や数学の処理で頭がいっぱいになるからだろう。 人と話す時はなるべく簡潔な話をした方がいいだろう。相手にもよく分かってもらえるし、何よりもお互いに、考える余地を残しておくことができるからである。 自分の意見を主張しっぱなしという人がいるが、相手のことを考えていないか、自分の意見もよくまとまっていないのだ。 簡潔な言葉を繰り返す、というのがヒトラーの演説手法の一つだったが、多くの事柄で譲歩しているのに「改革は一歩たりとも遅れていない」などと強弁を繰り返す小泉首相も「ワンフレーズ・ポリティックスはまずい」と指摘されたことがある。面白みに欠ける発言のくり返しが目立つ小泉首相に対し、キャッチフレーズのプロ、広告会社幹部らが面と向かって苦言を呈した。 電通の成田豊会長や俣木盾夫社長らとの会食で、俣木会長が「総理のコミュニケーション能力をもう少し発揮して、国民に対してメッセージを発したらどうですか」と問題提起し、成田氏会長も「一言しか言わないみたいに言われるのは、まずいんじゃないですか」と同調したという。 柿本人麻呂は昔から日本が「言挙げせぬ国」だといった。言挙げとは言葉に出して論じること、自己主張することである。本来はあれこれと言葉で言い争わない平穏な国だが、あなたの幸せを願い、人麻呂はあえて言挙げすると万葉集で長歌を詠んだ。その反歌が「しき島の日本(やまと)の国は言霊の幸う国ぞまさきくありこそ」である。 日本に自己表現はなかった。あったのは、型だけだった。型にいれこむのは、決して、西洋的な自己ではありはしなかった。 「欠点のない人間はいない」と言われると説教じみるが、『アントニーとクレオパトラ』にあるように「神々は、われわれを人間とするために、なんらかの欠点をお与えになる」と言われると、ああ、そうかと思える。言い方ひとつで印象はずいぶんと変わるものだ。 主にアメリカなどで、怒りのコントロール法として取り入れられているアサーションという手法がある。ムッとしたらどんな形でもよいので一呼吸おいて、自分がどのように感じているかその気持ちを「私は…」の形で相手に伝えることがポイントだ。つまり、「あなたは…」で話しをするよりも、攻撃に移りにくく、怒りの本来の役割である「警告」でとどめるための有効な方法として活用される。 アサーション(自己表現)型=「どうして来なかったんだよ。私はずっと待ってたんだよ」と相手の気持ちを考えつつ自分の思いを表現する。 「アサーティブ」(アサーション)というのは「言いたいが言えない」自己から「言えるが言わない」自己に変わることであるともいう。自分の意志で言わないという選択をすることによって自信に満ちた態度をとることができる。自己主張はわがままと違う。他人と違うことをきちんと話すことだ。 とはいえ、日本人にはなかなか難しい。僕も午後から珈琲を飲むと眠れなくなるのだが、出されると「毒」だと思って、一気に飲んでしまう。 アサーティブな態度をとるために一番重要なのは「自分がいいたいことをきちんと把握していることだ」という。自己表現というのは自己発見なのだが、自分が分かってないことには何も話せない。 もちろん、「今は言いたいことがまとまってない」とか「気持ちが整理できてません」という方が何も言わないよりずっといい。きちんと、正確になどと考えているといつの間にかチャンスを失う。 我慢して耐えることこそ人道的であるような感覚に囚われている人が多いが、選択肢は一つではないという。 4. たくさん やらなきゃいけないことが残っているので、次の洗濯が終わったら干してくれると助かるんだけど」と頼む。 1を選んだ人は『人に食ってかかる攻撃的なタイプ(ドッカン)』、2を選んだ人は『自己犠牲的で、踏みにじられても黙っているタイプ(オロロ)』、3を選んだ 人は『攻撃性を隠して相手をコントロールするタイプ(ネッチー)』、4を選んだ人は『自分の気持ちや意見を相手の権利を侵害することなく、率直に誠実に対等に表現するタイプ(アサーティブ)』という。 どのように行動するか、どのように考えるか、どのような気持ちを抱くかは自分自身で決めていい。そして、それらの考えや判断が、自分の中でどのように生まれて、どのような結果に至るかまで、すべて自分で責任を負うことができる。 選択肢は一つではないのに、もっと視点を変えればいいのに、分からなくなることがある。自分を追いつめてはいけない。 佐藤淑子『イギリスのいい子 日本のいい子』(中公新書)によれば、日本では「自己主張の強い人=自己抑制の弱い人」となるが、実は自己主張と自己抑制は、別の次元でみることができる。そして日本人は「自己主張が低く自己抑制が高く」、アメリカ人は「自己主張が高く自己抑制が低い」のに対し、イギリス人は「自己主張が高く自己抑制も高い」という。 そして、何よりも大人達が自己主張を捉(とら)え直し、かつ伝統的な自己抑制も失うことなく、自己主張と自己抑制のバランスをとる生き方をすべきであると説いている。 今の日本社会における政治も教育も産業も、あらゆる領域での制度疲労・制度破綻はすべてコミュニケーション不足からきている。正確に言うと、自己主張が足りないのである。 なお、「説得的コミュニケーション」というのもアサーティブに近いことをいう(浅川雅美「説得的コミュニケーション」『わかりやすいコミュニケーション学』三和書籍)。 アメリカ人は自己主張できる人が魅力で能力が高いと評価されるし、コミュニケーション能力は昇進や昇給に不可欠だとされるし、コミュニケーションに不安を持つ人は感情をコントロールできない、自分に自信がないと考えらるし、議論を好む夫婦はDVに陥らないという研究報告もある。ただし、アメリカ人のようになんでもかんでも議論するのがいいかどうか分からない。 自己主張することと「自己中」というか自己中心的な話し方をするのとは全く別だ。相手構わず自分の意見を話しまくるなんて人がいる。 コミュニケーションを円滑にするには相手のことを考えなければならない。相手の気持ちをくみ取ることが必要である。 そして、何よりも、相手を誉めることである。円満な人間として知られる僕にも大嫌いな人はいる。ケンカをすることもある。 しかし、普段はなるべく、細かいことでも誉めることにしている。どんなに敵対関係にある人間だって、下心のある誉め言葉だと思っていても、持ち上げられると嬉しいらしい。らしい、というのは僕はあんまり誉めてもらってないからだが、嬉しいようだ。□ 問題は相手の気持ちを考えないような人が多いことである。反論しようとしても自分の言いたいことだけ言ってどこかへ行ってしまう人がいる。 こちらも頑張っているのに感情を逆撫でするような人がいる。自分だけが頑張っているみたいに自慢する人がいる。「私はこうなのよ〜」と30分も話し続ける人がいる。 結論を決めてしまっていて、何を言っても聞かない人もいる。体育会系の人や保守的な人にそんな人が多い。コミュニケーションまで勝ち負けで考えているみたいだ。 父性的な言い方をする人と母性的な言い方をする人がいるということだ。前者は自分が正しくて相手は間違っているのだからと「断ち切る」話し方をする。後者は自分の考えも他人の考えも受け入れようとする。 「クラブ、サボりたいな、先輩来るかな?」に対して「逃げるなよ、いつもお前はそうだな」というのが父性的な言い方で、「先輩怖いのか、どうしてそんなに怖いのか?」というのが母性的な言い方といえる。 「友だちのような父親」はじつは父ではない。父とは子どもに文化を伝える者である。伝えるとはある意味では価値観を押しつけることである。自分が真に価値あると思った文化を教え込むのが父の最も大切な役割である。上下の関係があり、権威を持って初めてそれができる。しかし対等の関係では、文化を伝えることも、生活規則、社会規範を教えることもできない。「もの分かりのいい父親」は父の役割を果たすことのできなくなった父というべきである。 これだけの短い文章の中に「父とは…」とか「伝えるとは…」というように自分勝手に定義して、「…べきである」と終わる。規範的な物言いが続くのは、書いてある事柄が実証的に得られたことではなく、自分の結論に振り回されていることをさらけ出しているだけだ。全てがアプリオリ(先験的)に与えられたことで、異論の余地がないと叫んでいるだけである。 私は、他人に関して言えば、確信に満ちている人が、一番嫌いである。確信に満ちている人と話をすることくらい、退屈であほらしい事ない。好きにすれば、あんたの思うように、一人でやればいい。確信に満ちている人は、確信しているもの以外のことを、吟味したり、迷ったりすると困るらしいのである。前言をひるがえしたり絶対にしないから、目付き、顔付き歩き方まで、ひるがえさないものになって行く。そういうの見ていても嫌なものである。私はね。とんでもないものが飛び出して来ることがない。とんでもないものをとび出させないようにするのが、確信への道である。 しかし私はとんでもないものが、とんでもない時に、にょろりか、ぽとんか、ガラガラとか、ドカンとか出て来なかったら、生きているのつまらない、本当につまんないと私は思う。 自分は母性的だからといって、そんな人々に対して自分の気持ちをいつも抑えているといつか爆発する。 アメリカの経営心理学者ダグラス・マグレガーが唱えた理論にX―Y理論というのがある。マグレガーは労働について語ったのだが、他の場面でも通じる。性悪説と性善説の考え方とも似ているのだが、労働場面では2つの人間観が働いているとする。 X理論は、人間は本来仕事が嫌いで責任を回避したいとみており、飴とムチを使いながら、強制的に命令・指示し働かせるという考えが生まれる。なまけないように、常に行動を管理し、指示を出し、チェックしていくといった監視的・命令的な管理をとるようになる。 Y理論は、逆に労働者の自由な能力の発揮、創意工夫への期待、信頼が組織を発展させ、同時にそれが労働者個々人の生きがいにも通じるといった考えにたつ。人間は本来自分から成長したり、創造したり、働いたりする意欲を備えている存在で、そういった欲求を満たせる環境を創りだすことが大切だと考える。 議論にも当然、人間観が出る。父性論理、性悪説、X理論の側に立つか、母性論理、性善説、Y理論の側に立つか?それがその人のそれまでの人生と深く関わっているから難しい。議論に熱中すると相手の人間観・人生観を否定することにならないとも限らないので、注意が必要だろう。 趣味から話を始めるのもいい。誰でもちょっとした趣味があって、どこかで誉められたいという気持ちはもっているはずだからだ。 ただ、やたら誉めると何か下心があるのでは?と勘ぐられかねないし、相手がそう思っていないとイヤミに聞こえることも多い。 先日も卒業生に「教官のホームページ、すごいですね、尊敬しますよ」と言われても、俄(にわか)に信用できない。尊敬の言葉にも愛の言葉にも疑り深くなってしまっている。 誉めてけなすことができる。野村克也はかつて「長嶋茂雄くんはひまわりの花なんです」と言ったことがあったが、誉めながら、実は私の方は人気はないが実力がある月見草みたいなものだと自慢しているのである。 夫婦の会話の中身を、心理学と数学を組み合わせて分析し、カップルが離婚に至るかどうかを高い精度で予測する手法を、米ワシントン大学などの研究グループが編み出した。 米国内に住む夫婦数百組の協力を求め、それぞれの家庭問題について会話しているところをビデオ撮影し、会話の中身を心理学的に分析した。特に相手をほめるような肯定的なやりとりと、相手をけなす否定的なやりとりに着目し、両者が会話に占める割合を比較、これらのデータを数学的に処理したという。 その結果、結婚生活が円満に続くのは、肯定的な会話が否定的な会話の5倍以上ある場合だった。この数字(5倍以上)を割り込むと、結婚生活は高い率で破たんすることが判明した。 また、この分析手法を用いると、94%の確率で離婚するカップルを予測できるという。 日本語ではどうなるか分からないが、肯定的に話すことの大切さが分かる。 謙遜で思い出したが、正岡子規は病床でベンジャミン・フランクリンの自伝を愛読し、「余の如く深く感じた人は恐らくほかにあるまいと思う」(『病牀六尺』)と書いている。独立宣言を起草した政治家にして実業家、科学者でもあったフランクリンの成功物語は、アメリカ精神のバイブルとして明治の日本人に大きな感銘を与えたし、紙幣にもなっているだけでなく、スピルバーグの『アメリカ物語』もモデルでもある。フランクリンは『自叙伝』で13の徳目を列挙している。「節制」「沈黙」(クエーカー教を思わせる)「規律」「決意」「節約」「勤勉」「正義」「中庸」(フランクリンは孔子を勉強していたという)「清潔」「沈着」「純潔」「謙遜」の順でそれぞれが努力目標になっているのだが、「謙遜」が一番難しいという。 その部分を読んでフランクリンは正直な人だと思って信用することにした。「すごい歌だったね」と相手が誉めているのに「3カ所も歌い間違いがあった」なんていうのは謙遜でも正直でもなくなってしまう。 何ごとによらず、悪口(あくこう)をいうことのほうが褒(ほ)めることよりもやさしいようである。褒め言葉は、当の対象がよほど十分褒められるのに値していなければ、とかくうわつ調子なものになりがちである。これに反して、悪口のほうは、対象の弱点を取りあげるのがその仕事であるから、本来の性質上、甘くなることがそれほどにはできぬではないかと思う。それだから、たとえある悪口が実際にはちょろいものであつても、それが悪口であるというだけの原因によつて、けつしてちょろいものではないという外観を------少なくとも褒め言葉よりは、そなえやすいようである。 悪口は言わずに越したことはない。絶対に秘密だよ、といえば言うほどコミュニケーションの価値というものが出てきて、よりよく流通する。そして、相手の耳に入ってしまう。 考えてみれば、言葉で傷つくというが、全く根も葉もない事柄だったら、傷つかないはずだ。不当な指摘ではなく、妥当な指摘だからなのである。 少なくとも世の中に3人は自分にそっくりの人間がいると思っているが、周囲に3人は絶対に自分と「合わない」人がいることも覚悟しておいたほうがいい。 僕の場合は定年退職してしまったO先生で、こうやって書くと知られてしまうが、相手も公認の仲の悪さだった。忘年会で「どうや、天敵の酒は受けられないか?」とお酌に来たことがある。「いえ、点滴は体にいいと聞いています」とかわしていた。オブローモフ主義を標榜している訳でもないのに「お前は人間嫌いだろう」と言われたこともある。 何しろ、どんな問題でも必ずO先生と僕の対立になってしまう。全く無関係の問題でも、O先生が副校長の身分であったこともあってケンカになってしまった。 同じ挨拶を交わしているのに悪意に取られることも多くて、閉口した。どんな話も悪い方へ悪い方へと変化していった。どこかで僕に対してすごい誤解をしているとしか思えなかった。もちろん、僕にも色々と難点があることは知っているが、それ以上の悪意を感じるのである。 そんな人とのつき合い方をアドバイスしたいところだが、ここでは何もない。そういう人がいるということを覚えておいた方がいい。 一匹狼型の人間と調整型の人間がいる。僕は明らかに後者で、仕事は一番いいと思う人の話し合って回す。できが少し悪くても責任は僕にあると思う。自分の失敗に無頓着だから、他人の失敗にも無頓着である。 交渉の間に入って辛いこともある。森毅は『社交主義でいこか』(青土社)の「道はふたすじ」という中で次のように書いている。 昔から、タヌキと呼ばれる校長は、この術を使ってきた。職員会議を抑えるときは教育委員会を理由に使い、学校のやり方を教育委員会に認めさせるには組合分解を理由に使う。今はタヌキが少なくなって、キツネの教頭ばかり。 今までの話からケンカはしない方がいいということが分かってもらえたと思う。ゲーテだって次のように歌う。 が、それでもしなければならないことがある。ただ、ケンカをする前に何のためのケンカか一息入れて考えなければならない。その時は「認知的再評価」がひつようだ。「自分への言い聞かせ」という意味の心理学の用語で、怒りをコントロールするものである。 討論などの戦略はさまざまな本が出ていると思うから、そちらに任せるとして、いきなり、論争というか議論を吹っかけられた時に対策である。ただ、「あなたの意見には賛成できない」と言われてムッとするのは最低だ。そんなときは「どこに賛成できないか知りたいな」と返し、「じゃ意見の違いについて話し合おうじゃないか」と続けなければならない。 議論には遙洋子『東大で上野千鶴子にケンカを学ぶ』(筑摩書房)が役立つかもしれない。フェミニストでなくても是非、読んでほしい本であるがケンカの仕方が書いてある。ただし、社会科学と他の科学では論争の仕方が違うので注意。 上野千鶴子はケンカをしてもとどめを刺してはいけないという。とどめを刺すやり方を覚えるのでなく、相手をもてあそぶやり方を覚えるべきだという。 言葉の格闘技である議論の決め技はマスコミと大学とでは違うという。笑いと好感度がマスコミでは大切でコマーシャルの前に笑いを取った者が勝ちである。 その2 「守るための質問<わからない>編」=攻撃された時、反論、弁明などのリアクションをとるのではなく、相手が無自覚に安易に使用している言葉や表現に対して質問する。これを繰り返すことで質問は追求に変容する。「わからない」だけで最後までいけたらしめたもの。 その7 「言葉に敏感になる」=これなしに議論に勝つことはできない。抽象的なケンカではポイントを絞る。そのために具体性が必要だ。言葉に集中し、聞き耳をたてるしかない。どんな些細な言葉でもいい、不用意に出た言葉、無自覚に使われる表現、曖昧になっている言語、すべて攻撃対象だ。戦いはそこからしか始まらない。小さなスキから突いていく。些細なことから山は崩れることもある。 その8 「間をあけない」=考える暇も与えないほど、やるときはやる。相手に考える考える時間、立ち上がる猶予も与えない。頭の反射神経が必要。立て続けに攻撃を加えて攪乱する。まず、攻撃系質問をいきなり仕掛け、相手の不意をうつ。ウッと相手がつまった瞬間にすかさず次の質問を投げかける。相手が態勢を整えるまえに、また次の質問。しどろもどろの返答に容赦なくさえぎって質問。 その10 「勉強する」=質問が攻撃性をおびるか、単なる謙虚な質問に終わるかは、ここにかかっている。理論のない開き直りはただの性悪、質問攻勢は聞き分けのなさ、相手をさえぎる行為は常識知らず、集中は無愛想、ワク外の発想は話にならん女ということになってしまう。すべてあらゆる固定観念と戦い、勝ち、説得力をもつためには理論が必要なのである。そのためには勉強しかない。 上野千鶴子のフェミニズムを批判している内田樹が献本のお礼の手紙をもらったという。そこには「こんなありあまる洒脱な才能とバランスのよい大人の知恵とを、たかがフェミニズム批判ごときに使うとは、なんともったいないという感想を持ちました。(笑)」と書いて受け流してあったという。 コミュニケーションというのは話すことだけではない。「口で笑って心で泣いて」ということもあるし、顔に出てしまうこともある。 codeという)。自分の中身をうまく包み込むことが大切だ。潜在的な能力を持っているからこだわらなくていい、というかもしれないが、才能が開花するのは他人という媒体が必要なので、外見にこだわろう。自信があれば、相手に合わせた外見でも我慢できるはずだ。相手によい印象を与えて損はない。 僕は沈黙というのが苦手である。末っ子はみんなそうだという話もあるが、とにかく苦手だ。会議でも話が途切れると、つい余計なジョークをいって後悔することもある。ジョークにもTOPが大切だ。 お忙しいのに、こんな所までくっだらない文章を読んでくれてありがとう。なんて書いたら謙遜ではなくケンカになってしまう。 笑顔も大切だ。仏教でも「和顔愛語」、つまり「和やかな顔」と「優しい言葉」が人間関係を良くする最大の条件として説かれているわけです。 アメリカの心理学者マレービアンがコミュニケーションにおいて、話し手が聞き手に与える影響がどのような要素で形成されるか?調べて結果が次の通りである。 つまり、コミュニケーションにおいては、話の内容は7%しか伝わっていないというのだ。ここから、言葉だけのコミュニケーションがいかに難しいものであるか、という議論になり、スピーチ、プレゼンテーション、営業活動、接遇、視覚情報などの重要性を強調して商売にしている人たちの根拠になっていくのだが、ちょっと考えてみても言葉の7%というのは低すぎる。だって、字幕なしにフランス映画を見て93%の内容が分かる人なんかいない!外国人に「明後日、東京駅の東北新幹線ホームで3時15分に会いましょう」ということを手振りで伝えるなんてできっこない! マレービアンの実験というのは、まず、「好意」「嫌悪」「中立」のニュアンスを表す言葉を3つずつ選ぶ。それら9つの言葉を、それぞれ、「好意」「嫌悪」「中立」の声色で話者がテープレコーダーに録音。「好意」「嫌悪」「中立」の表情をした顔写真を1枚ずつ用意して、被験者はある写真を見せられながら、ある言葉を、ある声色で聞く。そして、話者の感情をどう判断したかを調べる。たとえば、怒った顔の写真を見せられ、歯軋りするような声で好意的な意味の言葉を聞かされた時、被験者が話者の感情を「好意」と判断したら、表情や声色よりも言葉のインパクトが強いと解釈されるというのだ。好意を表す言葉として選んだのは、文章でもフレーズでもなく、“honey”“dear”“thanks”という、ただの単語だったという。初めから、言語の情報力を軽視したような実験で。言葉の意味よりも、視覚や聴覚の影響の方が圧倒的に大きくなるのは当たり前だ。 もちろん、相手の知らないような仲間内の言葉を説明してあげるのも面白いかもしれないが、閉じた会話をしてはいけないということだ。 NVCというものがある。言葉以外のコミュニケーションで、『人は見た目が9割』という都市伝説もある。確かに、顔の表情だけで「アイ・ラブ・ユー」を伝えられるのは人間だけだ。 ただ、人間というのは怖いもので、ハムレットがおかしくなるのもよく分かる。父の命を奪ったおじ、クローディアスの温厚でにこやかな顔を思い浮かべて、心の手帳に刻みつける。 小さなことだが、目線や席の位置にも気をくばった。相手と対角線の場所に坐ることを避けたのもそのためである。それはある心理学者にきいて、会議などで意見が対立するのは対角線に坐った者どうしに多いことを知ったからである。目線も相手の眼を見るのは外国人を相手にする場合は真剣と思われていいが、日本人がお客さまの時は警戒心を起させる。身がまえさせる。眉のあたりをふわーっと眺めて話すのが、私の経験ではいいようだった。 ボディ・ランゲージ、対談中の相手の一寸した動作にももちろん注意した。耳に指を入れる、鼻の下をこする、そうした無意識のかすかな動作が言葉以上に相手の無意識の感情を表現しているからだ。しかしそうした些末な技術をこえて、対話術のコツは何よりもこちらが相手に好意を持つこと、相手の話に最大の好奇心を持つことだとわかってきたのは、対談をかなりこなしてからである。 TOUCH=会った時と別れる時に心のこもった握手する。日本人は無気力型握手をしてしまう。握手しながらお辞儀もしてしまうが、相手の目を見るのが正しい。 EYE CONTACT=日本人は相手に敬意を表して無礼にならないように目を伏せるが、例えばアメリカ人はその行為を不誠実で何かを隠そうとしていると感じる。ただ、欧米でも無理に目を合わせることはマイナス効果を生むと考えている。自然に目を合わせることが大切。日本にも「大坂本町糸屋の娘、姉は十六、妹は十四、諸国大名は弓矢で殺す、糸屋の娘は目で殺す」という言葉もあった。 ユーモアの定義は難しい。よく知られているのが、漱石もよく引用したジョセフ・アディソンが家族にたとえて次のような言葉だ。 ユーモアはイギリスが本家だ。「あなたが私の夫だったら、コーヒーに毒を入れますわよ」。ある子爵夫人にそんな冗談を言われたチャーチル英首相はこう答えた。「あなたが私の妻だったら、それを飲むでしょうな」。 国会の答弁が面白くなかった時にウイスキーを飲んでいて、見つかった時にチャーチルは「こんなくだらない議論より私は国家に貢献している。何よりも酒税を払って」と話した。 余命いくばくもないチャーチルに、インタビューを終えた若い記者が「来年お目にかかれば光栄です」と礼を言った。すると、チャーチル「君ィ、来年会えないはずはない。君は健康そのもの。せめて来年までは生きているだろう」。チャーチルのユーモアは即興だった。けれど、演説の方は、少し発音障害があったこともあり、十分に準備したものだったという(小林章夫『イギリス名宰相物語』)。 ドイツ兵の攻撃を受けて追いつめられたイギリス兵が「これでわざわざ敵をやっつけるために遠くへ出かけていかなくてすんだ」といったという。僕が一番好きな話の一つはシンガポールが日本軍に占領された時、新聞記者たちがパーシバル将軍に「あなたはイギリス兵は日本兵の12人に相当するから大丈夫と言っていたではないか」と責任を問うたのに対して「そう思っていたけど、日本軍が13人来た【devil's ドーバー海峡がドイツ軍によって封鎖された時にイギリスの新聞は「ヨーロッパ孤立」という見出しを付けた。孤立したのはイギリスなのに…。ロンドンがドイツの空襲を受けてデパートに被害を受けた時も「入り口を広げました」と書いた。 イギリスにはこんなユーモアがあふれている。ユーモアがいえるのは心のゆとりである。国会での党首対決の彼我を比べてみれば分かるが、小学生に体重を聞かれて「国家機密」などと答える馬鹿な国の首相とは違うのである。 アメリカの話だが、シドニー五輪の日米対決でアデレードの会場が日本のサポーターで日本の競技場みたいになって心配ではないかと尋ねられたアメリカの監督が「私は何十年もサッカーを見てきたが、観客がゴールを入れるのを見たことがない」と答えたのが印象的だ。 急いで付け加えておくが、ユーモアは世界共通ではない。ごく基本は確かに共通の部分があるが、文化に依存していることが大である。ブラックジョークが通じないこともある。 コミュニケーションを紋切り型ですます人がいる。唾棄すべきだと書いたのは『ヨーロッパ退屈日記』を書いた伊丹十三である。 やたらと紋切り型の言葉を使う人がいる。【…】歩くことを“テクシー”という。秀才とか名人とかいう言葉が出ると“でもシュウは臭いほうのしゅうだけど”とか“メイは迷うほうのメイでしょう”とかいう。【…】外斜視のことを“ロンパリ”、ズボンのチャックを“社会の窓”、ゲタを“ジャパニーズ・スパイク”、お風呂に行くことを“ニューヨーク”、質屋を“イチロク銀行”、日曜日を“ネテヨウビ”なんていうのはみんなこの人たちである。 ユーモアのない会話は干からびたサンドウィッチに等しい。おまけにお水もジュースもなしにぱさついたままで食べているようなものである。 自分でジョークを作らなければならないが、できない人はせめてジョークの本をきちんと読んでほしい。 笑いには人を笑うエスプリと、自分を笑うユーモアの違いがある。窮地から救ってくれるウィットもあるし、無理矢理笑わせようとするギャグもある。いずれも会話に刺激を与えるが、食べ物ではないことに注意。 同じことをいうのにレトリックを使わない手はない。レトリックというのは美辞麗句ではない。最近ではものの見方をいう。同じ事をいうのに気の利いた言い方をして注意を引かなければ損だ。 『ロミオとジュリエット』の第5幕でロミオが毒薬を手に入れようとする。マンチュアでは毒薬を売ることは死刑になっているが、貧しい薬屋は貧しさゆえに売ることにする。彼は40ダカットを受け取っていう。 レトリックを、といっても凡才である僕らにこんなレトリックが簡単にできる訳はない。ちょっと気の利いた言い方を模索しようということだ。 東大の卒業式に大河内総長が「太った豚になるよりも痩せたソクラテスになれ」(これはマスコミ用原稿だけにあって実際は話さなかった)というのはレトリックになっていない。東大生であろうとなかろうと太った豚になりたいと思う人はいないからである。「キムタクになるよりもタモリになれ」くらいだったらレトリックとして完成している。「オタクになるよりもキムタクになれ」でもいい。 シェイクスピアの中でも一番有名なレトリックは『ジュリアス・シーザー』のアントニー(アントーニアス)の追悼演説である。ブルータスがもっぱら知に訴えた(散文になっている)のに対して情に訴えた(韻文になっている)。ブルータスたちを避難する言葉は禁じられていたので、シーザーの遺言状をほのめかしながら次のように始める。 許してくれ、友人諸君、読んではならないのだ。シーザーがどんなに諸君を愛したか、諸君はそれを知らない方がいい。諸君は木石ならぬ、人間だ、人間である以上、シーザーの遺言を聞けば、諸君は激昂するだろう、狂気のようになるだろう。諸君が彼の遺産相続人であることなど、諸君は知らない方がいい、知れば、ああ、どうなる? 見てはならぬと言われれば与ひょうでなくても見たくなるのが人間だ。市民は「読んでくれ。聞きたいのだ」と叫ぶ。ここでアントニーは「シーザーがどのように無惨な姿で死んでいるか、哀れな亡骸を見てくれ」と被いを取る。こうして目に訴えた後で、遺言状を開き、「ローマ市民すべてに七十五ドラクマずつ贈る」と約束していたという。こうしてローマ市民を扇動し、ブルータス一味を破滅に追い込んでいく。 カメルーンのフルベ語には「君は牛の糞のように美しい」(蠅が群がるように男が…)という言い方があるが、マサイ族には同じ表現は通じないという。 仁徳天皇には「つぎねふ 山背女の 木鍬(こくわ)持ち 打ちし大根 根白の 白腕 纏かずけばこそ 知らずとも言はめ」(山城女が木の鍬で掘り出した大根のような真白な腕を巻き合ったことがあったのを知らないとは言わせないよ)という皇后に贈った歌がある。この場合、「大根のように真っ白な腕」というのは最大の賛辞になっている。今は使えないだろう。 村上春樹は喩えがうまい。「山から下りてきた大猿に村娘をさらわれたような口ぶり」だとか「大ジョッキ一杯分くらいははっと息を呑んだ」とか「スナネズミのようにおぞおぞと小心に暮らしている人間」とか…。 『ノルウェイの森』では女性のヘア・スタイルについて「世界中の森の木が全部倒れるくらい素晴らしいよ」といわせている。途方もない誇張表現だが、英語のstunningは「卒倒させる」という意味だが、美人の形容によく使われるので、村上の発想の背後にはこうした英語表現が取り込まれている。レトリックは比較文化なのである。 女性というのは、愛の大きさを知りたがるものらしく、これは『アントニーとクレオパトラ』第1幕第1場(小田島雄志訳)を踏まえているともいえる。 ちなみに、こうしたシェイクスピアの世界をゲーテはエッカーマンとの対話で「目に見える全世界すらも、彼【シェイクスピア】には狭すぎる」といった。 同時通訳をしていた米原万里によれば、「醜女の深情け」はロシア語で「熊の親切」(うさぎの頬にとまった蚊をしとめてやろうと、熊が親切にも掌でたたくと、うさぎは気絶してしまったという寓話による)という。「羹に懲りて膾を吹く(あつものにこりてなますをふく)」は「ボルシチでやけどして水を吹く」という。彼岸の違いを感じる。 ソ連邦が崩壊してまもなく、A外相がロシアを訪問。ロシアのB外相との会談は実り無く、成果として発表出来るものは何もなかった。それでも、政治家とは辛いものだ。両国の記者団を前に会見に臨まなくてはならない。苦肉の策で、両外相が一緒にサウナに入って親交を深めたということを殊更強調することになった。記者会見の三時間前に通訳の私に渡された外相のスピーチ原稿には、「文字通り裸のつき合いをした」と書かれてある。報道官に確めた。 「いや、そこのところは、大臣もぜひ文字通り訳してくれとおっしゃっている。実際に裸になったんですからねえ、それと『裸のつき合い』が掛詞になってるんですよ」 「でも……」と言いかけて師匠の戒めを思い起こし、私は引き下がった。しかし、会見の時間が近付くほどに心が乱れる。会見場の記者たち、テレビ中継を見る視聴者が笑い転げる光景が目に浮かぶ。会見三十分前になって、堪えきれなくなった私は報道官に申し出た。「あの、例の『文字通り裸のつき合い』という表現なんですが……」 「B外相は同性愛者だという説が常識になってるんです、ロシアでは。だから私が字句通り訳すと、会見場は爆笑すると思うんです。それでもいいですか?」 いずれにしろ、手垢のついたレトリックはいけない。僕も「デミックなジョーク」に走りたいと思っているが、アカ抜けたジョークになっているとはいえない。 土屋賢二は『われ笑う、ゆえにわれあり』(文藝春秋)で、むりやりワープロを使っている同僚の文字をけなして次のように表現している。 その字は目がくらむほど下手だったのである。アル中の猿が揺れるバスの中で岩手県のリアス式海岸の地図を利き足でない方の足で書いたとしてもこうまで曲がりくねった字はかけないであろう。 学生にスピーチはどうすればいいのですかと聞かれると「細かな事実から大きな普遍に」と答えている。例えば、学校の思い出という話になるとなるべく誰も知らないような話を持ってきて(多少無理があろうと)これがこの学校の良さですと話を持っていくのだ。 ある時、NHKのアナウンサーが大一番に勝ったばかりでゼェーゼェー言っている相撲取りに向かってマイクをつきつけ、「大関にとって横綱とは何ですか」と聞いたという。これに対して丸谷才一は「この質問は親子丼にとって鰻丼とは何ですかと聞くようなものだ」とからかっていた。 これを抽象の階段を昇るというが、スピーチでは使えるのだが、会話では多用しない方がいい。「疲れたね」という話をしているのにいきなり「資本主義が悪い」というようなものである。 同僚にもそんな考えしかできない淋しい(悲しい?)人がいて、シェイクスピア劇の話をしていたら、彼は僕と違って英文科出身にもかかわらず、「貧しい人はシェイクスピア劇を楽しんでいただろうか」などと言ってみせるのである。こういうのを想像力とは言わない。想像力の貧困というのである。芸術の多くが王侯貴族によって支えられてきていて、それを悪いというのだったら、シェイクスピアもモーツァルトも生まれてこない。 こういう硬直化した考えの人は管理職にでもなろうものなら、いっぺんに態度を変える。自分以外は想像できないのだから当然である。同情する余地もない淋しい人間である。実はシェイクスピアなど何も知らないだけなのである。 物言いの悪い人がいる。同じことを主張するのにも相手の感情を害するような言い方しかできない人がいる。例えば、いきなり電話をかけてきて「あれは一体どういうことなのだ」などと言ってくる輩である。相手の立場というのが想像できないで、自分の殻の中だけでコミュニケーションをしているのである。 たまに妥当なことを言っても、誰もついて来はしない。自分の殻を破ることがコミュニケーションには大切なのだ。 美人を美人だと言ってもレトリックは成立しない。バラはバラだ、というのはレトリックではなくて「バラはバラにすぎない」とくさしているのかもしれない。美人をどう表現するか、そこから表現というのが生まれるのである。 どんな言葉がいいですか、と聞かれても僕は知らない。誰もが考えそうなありきたりの言葉ではレトリックにならない。その人、その場でしかないようなレトリックを考え出さなければならない。 レトリックの基本は誉める時には最初に悪く言う。例えば、「美人って大嫌いだ」といってもいい。「僕から言葉を奪ってしまう」といってもいいだろうし「国語辞典を捨てたくなる、だって、あなたを表現する言葉は書いてないだろうから」と繋げてもいい。ただし、きざったらしい惨めなおぢさんと思われなければの話だ。 赤瀬川原平は『老人力』の中で「物忘れがひどくなった」を「忘却力が強くなった」、「力が出なくなった」を「力がうまく抜けるようになった」と言い換えればいい、という。言葉というのはホンの少しの言い換えでまるで違ってくる。「撤退」を「転進」、「戦車」を「特車」というような権力の言い換えには目を光らせなければならないが、僕らが言葉を言い換えるのには悪いことはない。おまけにお金もかからない。 誤解しないでほしいが僕は挨拶を否定してるのではない。日本人は型どおりの挨拶の交歓だけで、そこから楽しく豊かな会話に進まないことを懸念しているのである。 話し合えばお互いに分かりあえる、というのも日本人的な夢でしかない。文化は対立するものである。民族紛争や宗教紛争が決してなくなりはしないことからも分かるだろう。人間は根本的に理解し合えないという絶望から出発した方がいい。 “すべてをわかりあえぬとき、人は逆算して「愛し合っていないのだ」とか、論理を欠いて「愛し合っていなかった」と判断する”というのはデボラ・タネン『「愛があるから…」だけでは伝わらない』(講談社1995)の言葉だが、「愛があるから…」と思ってもお互いが異文化だということ、深い溝があるということを忘れてはいけない。結婚は、それどころかコミュニケーションは異文化との出会いだ。コミュニケーションというのは寂しい。なぜなら、コミュニケーションはお互いの距離を確認する行為だからだ。男と女の間には、深くて暗い河がある、という奴だ。異文化を理解しないでコミュニケーションは成立しない。同時に自文化も知る必要がある。 相手の気持ちを考えよう、というのも相手を気遣って何も言うなということではない。視点や論理が異なることを肝に銘じなければならないということだ。相手は異文化を持った他者だということを忘れてはいけないだろう。そして、コミュニケーションの基本は自分の価値観を相手に押しつけないことなのである。 日本には対話が欠けている。あるのは井戸端会議と結論だけというのでは寂しい。知識の交換ではなく、無知の交換や憎悪の交換みたいになってしまう。 日本では日本語の使い方、特に建設的な話し合いのための日本語を教えていないような気がする。柳田国男も「物言うすべ」という随筆に書いている。 やっぱり世間に出てもなお当分のあいだは唖かと思うほどもじもじしていたり、然らざればただ横着を資本に平気でおかしなことを言っていて、笑われて少しずつ改良してゆくの外はないのか。但しは又、これにも方法はあって、およそ間に合うだけは学校の教育のなかでなんとか始末をつける途があるのであるか。 僕が楽しいと思う会話は相手と知らないことを出し合い、話の後に互いが高め合っているような会話である。「脅かしっこ」と言ってもいい。相手の知らないようなことを話し、相手からもこれは知らないだろう、というような話をされ、同じことを違った角度から指摘される、それがイヤミではなく、互いの足りない情報を補うような会話が一番楽しい。そのためには同程度の「教養」というのが必要なのだが、「教養」の定義は難しい。 中学校の時に(今なら大学生だって気にしないことだが)「教養って何だろう?」と考えたことがあった。相手と話を合わせられることだ、と非常に単純に思って、相手がクルマが好きならクルマ、プラモデルが好きならプラモデル、女が好きなら女、という具合に話を合わせたが、何も生まれなかった。挨拶と同じようにそれ以上に深まらないことが多かった。 『星の王子さま』でパイロットは賢そうな人を見ると、ウワバミの絵を見せる。ところが、誰も分かってくれなくて、ウワバミの話もジャングルの話も星の話も止めてしまって、その人に話を合わせ、ブリッジやゴルフや政治やネクタイの話をする。そうすると大人は「こいつは話の分かる男だ」と満足してくれるのであった。 僕自身も「ゴルフやダンスのことが話せなくて何が男だ」とマジで言われたことがある。そんな虚しい会話が多くて、人とあまり話さなくなってしまい、「人間嫌い」と思われるようになった。 楽しいのは色々な知識をもった仲間と語り合うことだ。「西町ロンド」(エスペラント語の「サークル」)というのを持っていたことがあるが、同じ飲むなら分野の違う人と飲むのが楽しい。協奏曲のようにお互いを意識しあいながら音楽を創りあげていくような作業でありたい。 僕は宴会が大嫌いだ。古傷を舐め合っているようなコミュニケーションだから日本人のコミュニケーション能力が向上しないのだ。岩波文庫の『旧約聖書』を翻訳しておられる関根正雄先生に言語学科の忘年会に誘ったら「日本人は忘年会といって毎年のことを忘れるから日本人に知識の重層化が生まれないのだ。ボーネン、つまり豆の会というならまだ意義がある」と叱られたことがあるけれど本当にそうだ。座談会でもシンポジウムでの「産婆術」としての本当の意味での対話は生まれず、「やっぱり」の繰り返しでお互いを確認しあって同じ頂上を目指す。対話が終わったら別の山頂ができていた、なんてことはない。「やっぱり」をやめて、「異議あり」を唱えなければならない。 旧情報と新情報を上手く組み合わせて、別れる時には別の自分になっているような会話ができることが本当のコミュニケーション能力なのである。 米原万里は『米原万里の「愛の法則』(集英社新書)の中で、プラハのロシア語で授業をする小学校に転校してきたチボーという悪ガキの話を書いている。父がカナダ人で母がフランス人だったという。とんでもない男の子だったのだが、ある時、ガリーナという女性教師が「これ以上つけあがると、その芋頭をシンメトリィにしてやるからね」と言った。喧嘩をした後で右のほおが紫色にはれていたので、左にも一発かましてやる、ということだったのだが、「非常に詩的ひらめきに満ちた表現」だったので、みんな感服し、チボー少年も授業中だけは静かになり、「ガリーナの奇跡」と呼ばれるようになったという。 おそらく、チボーも来た当初は、やっぱりなにもわからなくて、とても辛かったんだろうと思うんです。ですから、あの授業つぶしは、私の肩こりや偏頭痛と同じだったのではないでしょうか。 けれども、ガリーナ先生が「シンメトリィ」のことを言った瞬間には、先生の言ったことがわかったんですね。笑ったから。みんなと一緒に理解することができて、みんなと一緒に笑える喜びというのが、あの瞬間、彼にもわかったんだと思うんです。それで彼は、それ以降授業つぶしをやめたのではないかと思います。 先ほども言いましたように、コミュニケーションというものは、不完全なもので、完璧なものにするのは永遠に不可能です。しかし同時に、人間というのは、常にコミュニケーションを求めてやまない動物であるという確信が、私にはあります。たぶんそれが現在も通訳をしている原因ではないかと思うのです。 みんなが同時に笑えて、一緒に感動できる。いつもそれを目指しています。不完全だけれども、とにかくいつもそれを目指しつづけるとうのが、通訳という職業ではないかと思っています。 ぐだぐだと書いてしまったが、本当に感性が豊かな子どもというのはなかなか自分の感情にぴったりの言葉を見つけにくいものである。とまどってしまうのが自然だろうと思う。シャイというのは今のアメリカ的なコミュニケーションの議論の中では評価されにくいものであるが、シャイネスというのは日本人が失ってはいけない美徳だと思う。コミュニケーション能力を高めるため、といいながら逆のことも書いてしまった。 今度どこかでお会いした時には、コミュニケーション能力について別の見方があるよ、っていうお話をしましょう。 別の見方を約束しながら何も書かなかったが、内田樹『先生はえらい』(ちくまプリマー新書)にコミュニケーションの本質について書かれていたので、引用しておく(子どもの本と思わずに是非読んでください)。 …コミュニケーションを駆動しているのは、たしかに「理解し合いたい」という欲望なのです。でも、対話は理解に達すると終わってしまう。だから「理解し合いたいけれど、理解に達するのはできるだけ先延ばしにしたい」という矛盾した欲望を私たちは抱いているのです。 理解を望みながら、理解に達することが出来ないという宙づり状態をできるだけ延長すること、それを私たちは望んでいるのです。 高専生は7月までには就職が決まっているのだが、なかなか決まらない学生もいて、そのためにまとめておこうと思ったメモである。 それにしても、最近、「〜のため」という文章が多くなっていてネタが切れてきたことを痛感させられる。 ともかく、この文章はβ版としてずっと書き続けていく予定だ。それほどコミュニケーションは難しい。 その後、樋口裕一『頭のいい人、悪い人の話し方』(PHP新書)が出版された。周りの人がどのタイプが当てて楽しむのもいいが、自分自身を振り返る一つの手段ともなる。対処法が笑えるくらい実践的だ。 |
[ 305] コミュニケーションはリーダーシップの基礎 ‐ @IT自分戦略研究所
[引用サイト] http://jibun.atmarkit.co.jp/ljibun01/rensai/eh08/eh01.html
将来に不安を感じないITエンジニアはいない。新しいハードウェアやソフトウェア、開発方法論、さらには管理職になるときなど――。さまざまな場面でエンジニアは悩む。それらに対して誰にも当てはまる絶対的な解はないかもしれない。本連載では、あるプロジェクトマネージャ個人の視点=“私点”からそれらの悩みの背後にあるものに迫り、ITエンジニアを続けるうえでのヒントや参考になればと願っている。 前回の「中心は『ココロ』、リーダーシップトライアングル」で、私が考えるリーダーシップのフレームワーク、リーダーシップトライアングルの概要を説明しました。 コミュニケーションはリーダーシップの基礎なので、リーダーシップトライアングルでも下のレイヤに配置しました。 リーダーシップの各種教科書にもリーダーシップとコミュニケーションは表裏一体であると書かれています。私も同意します。プロジェクトが大人数になればなるほど、プロジェクトのリーダーとメンバーとの対話も増えるでしょう。 上下のコミュニケーションは指示命令系統となることが多いでしょう。そのほかに横に連携するコミュニケーションもあります。 例えば、チームをまたがって横断的に作業をする局面があります。チームに分かれてシステムを設計し、各チームの設計完了時点で、チームをまたがった設計の整合性確認をすることもあるでしょう。システム導入前のテスト(運用テストとか運転試験とかいいますね)において、システム全体を通してテストするための試験項目を挙げるような横の連携の取り組みもあります。 経験のある方なら、こういう取り組みは結構骨の折れる重要な作業だとご理解いただけるかと思います。 SI(システム開発)プロジェクトの規模が大きくなればなるほど、上下のコミュニケーション、横のコミュニケーションが複雑になる傾向にあり、コミュニケーションが滞ってしまうリスクも高くなるでしょう。リスクが高い状況で、上記のような縦横無尽のコミュニケーションをつかさどるべきリーダーが、何もいわずに「黙っておれについてこい」というのでは、メンバーはリーダーが何を考えているのか分かりません。やはりリーダーシップ、特に大規模SIプロジェクトにおけるリーダーシップの基礎はコミュニケーションなのです。 SIプロジェクトには、さまざまなバックグラウンド(過去に培った経歴や能力)を持った人が集まります。システムのユーザーの代表として、アプリケーション開発の専門家として、ハードウェアやソフトウェアの専門家としてというように、さまざまな経験・能力を持つ人が集まって、SIプロジェクトを遂行します。 SIプロジェクトでは、このようなバックグラウンドの異なる人を抱えて、一定期間に与えられたミッションを完遂することが求められます。バックグラウンドが異なれば、興味や関心も異なります。このような人たちを取りまとめてミッションを完遂するためには、電子メール、口頭、書面など方式を問わず、対話を通じてプロジェクト全員が共通認識を持つことが重要となります。問題は、いかに効果的・効率的にコミュニケーションをしていくかということになります。 効果的・効率的にコミュニケーションするために、一般的には以下のようなことがポイントとして挙げられます。 電子メールと口頭の連絡を使い分け、コミュニケーションを円滑にする(電子メールは込み入ったコミュニケーションには不向き。口頭は記録が残らず、同一内容を一斉に通知するには不向き) 書店に行けば、これらのポイントを紹介する良書が平積みされています。細かい解説はそれらの良書に譲ります。とはいえ本を読み、なるほど理解した、これでコミュニケーションはバッチリだ、と思い込むのはちょっと危険かと思います。なぜかというと、これらのポイントは手続きの議論、もっというと小手先の議論と考えるからです。 確かに手続きは大事なことですけれども、手続きを改善するだけでは単なる対症療法となることが多く、SIプロジェクトにおけるリーダーシップのためのコミュニケーションという文脈では不十分なのです。 手続きの議論の前に、コミュニケーションに関して本質的なことを考える必要があります。本質的なことを見落として手続きに固執してしまっては、意味がないといいますか、せっかくの手続きが生きないと思います。 では、リーダーシップにつながる本質的なコミュニケーションについて考えましょう。この連載では分量の都合もあるので、主要な2つの視点、ITエンジニアに多い2つの問題点から解説します。 SIプロジェクトにおけるリーダーは、元ITエンジニアであることが多いですね。元ITエンジニアがリーダーになること自体は、歓迎すべきことと考えます。やはり現場で苦労した経験のある人が現場のリーダーになる方が、現場のITエンジニアを円滑に管理できるからです。 とはいえ、元ITエンジニアのリーダーにありがちな問題があります、コンピュータとのコミュニケーションと対人コミュニケーションをはき違えることです。 コンピュータは、とても気が利かないものです。例えば、仕事上重要なExcelやWordのファイルを間違えて削除してしまったという経験はありませんか。コンピュータは「これは重要なファイルだから消しちゃだめだよ!」とはいってくれません。人間だったら、重要な書類をゴミ箱に捨てるところを見たら「捨てちゃだめだよ!」と声を掛けてくれそうなものです。 一方、コンピュータのいいところは、気が利かないところの裏返しで、同じことを何万回でも繰り返し実行し、しかも正確であるということです。人間ではこうはいきませんよね。同じ計算を10回くらい繰り返したら、普通は飽きて嫌になるし、間違えることもあります。 こういう性質を持つコンピュータとの付き合いが長いITエンジニアが、「正しいインプットを与えれば、必ず正しいアウトプットが出る」という考えを持ってしまってもおかしくはありません。ただ残念ながら、コンピュータでなく人間を相手にしていると、このようにうまくはいきません。むしろ以下のような矛盾に悩まされることが多いでしょう。 間違ったインプットを与えたにもかかわらずアウトプットが正しい。もしくは予想以上である 人間を相手にしている以上、これは当たり前です。人間は間違いを犯します。間違うことのない人間はいません。人間は努力をします。努力の結果、少ないインプットから予想以上のアウトプットを生産することがあります。人間との付き合いをしている人は理解していることですが、コンピュータとの付き合いが長い人は、こういうあいまいさというか、良くも悪くも柔軟性が理解できません。そうなると、だんだん人間不信に陥るわけです。 つまり、コンピュータとのコミュニケーションに過度に親しむと、人間とのコミュニケーションとコンピュータとのコミュニケーションを混同してしまいます。人間はコンピュータほど正確ではないし、飽きっぽいし、いいかげんなのです。このことを理解していないITエンジニアが結構います。 このような、ITエンジニアの陥りやすいコミュニケーションにおける問題点を把握し理解することが、SIプロジェクトにおけるコミュニケーションの基礎となるのです。 上記の問題点に関連しますが、結論を先にいいますと、ITエンジニアは後ろ向きでも何とかなってしまうことが多く、コミュニケーション能力を身に付けるチャンスを失っていることが多いのです。 そもそもコンピュータとのコミュニケーションにおいては、キーボードとマウスを通してのものが主なので、前向きな態度を取り、さわやかなあいさつをする必要はありません。コンピュータにあいさつする人がいたらかえって気味が悪いですよね(たまにいますけれども)。つまりITエンジニアは、無愛想に接しても問題ないコンピュータと、継続してコミュニケーションする機会が多いといえます。 ITエンジニアに限らず、いわゆる専門家、スペシャリストという人たちは、自分の専門領域を持ち、その専門性を求めて他人が集まってくるので、人としての好感度に鈍感になる傾向にあります。例えば医者にかかったときに、医者の横柄な態度に不快になったことはありませんか。その医者に能力があれば、無愛想にしていてもお客さんは集まってきます。無愛想であっても商売が成り立つし、能力があれば、さらに無愛想になっても問題ないと勘違いをする医者もいるかもしれません。 同じことがITエンジニアにもいえます。ITエンジニアも、スキルがあるという理由で他人に頼りにされる限りは、無愛想でも何とかなります。周囲もITエンジニアが大半なので、自分が無愛想であることにすら気付かないでしょう。この点も、ITエンジニアのコミュニケーション能力が総じて低いことの根本的な原因の1つと理解しています。 しかし、職位・職制が上がるに従い、ITエンジニア以外の人とも接するようになります。無愛想なままでは相手に不快感を与え、円滑なコミュニケーションができなくなります。さらに職位・職制が上がり、コンピュータスキルを身に付ける機会が減ると、自分の部下の方が高いコンピュータスキルを持つようになり、コンピュータスキルにあぐらをかいて無愛想な態度を取ることができなくなります。 ここが元ITエンジニアのリーダーの1つの分かれ目と思います。自分の職位・職制にふさわしいコミュニケーションスキルを身に付け、好感を持たれる人間を目指すか。または過去の自分にしがみつき、コンピュータスキルに固執し、無愛想なままでいるか。 医者の例をまた出しますが、非常に人柄が良く、コミュニケーションも円滑で、かつ能力の高い医者はいます。こういう人は接していて気分がいいですし、人気があり商売も繁盛しています。皆さんも人柄が良く、コミュニケーションが円滑で、かつスキルのあるITエンジニアになりませんか。 このような根本的な原因を把握し、SIプロジェクトにおけるリーダーシップの基礎としてのコミュニケーションを身に付ける方策を考えましょう。やみくもにコミュニケーションの手続きに関する本を読みあさり、コミュニケーションの手続きだけを追い求めるやり方は、効率的ではないと思います。手続きも大事ですが、それだけでなく、SIプロジェクトにおける本質的なコミュニケーションについての考え方や問題点を把握したうえで手続きを学習し、実践することが重要と思います。 上記の問題点を理解することが、リーダーシップの基礎としてのコミュニケーションにとって重要であることは間違いないと思います。ただ、これで十分かというとそんなことはないでしょう。今回ご紹介した2点以外にも問題点はあります。 また、コミュニケーションは、世代が替われば方式も変わり、時代に応じたものが必要となります。私自身も日々コミュニケーションを学んでおりまして、新しい発見の連続です。今後の連載でも、コミュニケーションに関する考え方を紹介する予定です。 野村隆●大手総合コンサルティング会社のシニアマネージャ。無料メールマガジン「ITのスキルアップにリーダーシップ!」主催。早稲田大学卒業。金融・通信業界の基幹業務改革・大規模システム導入プロジェクトに多数参画。ITバブルのころには、少数精鋭からなるITベンチャー立ち上げに参加。大規模(重厚長大)から小規模(軽薄短小)まで、さまざまなプロジェクト管理を経験。SIプロジェクトのリーダーシップについてのサイト、ITエンジニア向け英語教材サイトも運営。 @IT自分戦略研究所トップ|自分戦略研究室トップ|会議室|利用規約|プライバシーポリシー|サイトマップ |
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