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[ 198] X51.ORG : 人間の寿命は今後20年で1000歳以上に
[引用サイト]  http://x51.org/x/04/12/1018.php

従って、おそらく今後10年の間に我々はまずネズミに対して実験を行い、その寿命を著しく延ばす事に成功するでしょう。
そしてその次の10年間で、人間にも適用することが可能になると見込んでいます。この技術が完成すれば、我々はもはや老化による老衰や虚弱、そしてそれらに起因にする疾病を恐れることはなくなるわけです。
もちろん、こうした技術が完成した後も、我々は不死になるわけではありません。それは例えば交通事故や、毒蛇にかまれた時、新種の悪性インフルエンザにかかった時、我々はこれまで通り死ぬでしょう。しかし、我々全てを待ち受ける死因の一つ - 老衰は避けられるようになるわけです。
また私の推測では、この技術は現在生きている我々の世代に適用することが可能だと考えています。なぜなら、現在中年や老年の身体に蓄積された損傷も修復することが可能だからです。従って、この技術が完成し、1000歳まで生きることになる最初の世代は、今現在60歳程度の世代になるのではないかと考えています。
ただし、この技術は老化それ自体と同じく、非常に複雑なものとなります。老化現象は大きく分けて7種類の細胞と分子の損傷が原因となっています。例えばそれは細胞が置き換えや転換なしに失われていくことなどです。しかしまた、これらの現象は現在使われている、あるいは開発中のテクノロジーによって潜在的には修復可能なことです。
人の寿命は様々ですが、現在一般的には、大体65歳から90歳くらいの間に死亡しています。人は年齢を重ねるうちに虚弱になるからです。しかし今後、人の平均寿命は大体数千年単位の範囲になるでしょう。これはもちろん推測値に過ぎませんが、この数値は現在の若年死亡者の平均寿命から導かれたものです。
例えば現在、あなたが安全な地域で暮らしている十代の少年であるとした場合、あなたが翌年死ぬ可能性は非常に低い。従って、その場所で生き続ける限りは50/50の可能性で千年以上生きることができるようになるわけです。
そしてここで重要なのは、そうなった場合、誰しもが虚弱や衰弱を恐れなくなるようになるということです。誰もが精神的に、そして肉体的に若いため、つまるところ貴方が気をつけるべきなのは、迫りくるトラックの速度、すなわち交通事故などになるわけです。
また、もし我々の技術が完成し、実際に老化が防止されるようになれば、大きな社会的変化が起こるでしょう。事実、現在我々が行う研究に対して惧れを抱き、人間の自然の摂理に逆らうべきではない、と主張する人々も少なからず存在します。しかし、私に言わせればそれこそ悪徳であると思います。そうした主張はすなわち、我々は生きる権利を否定するべきである、とするものと言えるでしょう。
確かに、人が生きること、死ぬことを選ぶのは人間に与えられた最も基本的な権利です。しかしその一方で、我々の力の及ぶ限り、人々がより良く生きるチャンスを与えることは、我々の最も基本的な義務の一つなんです。
例えば人を延命すること、そして命を救うことの間には違いはありません。何故なら、それらはどちらとも、我々が彼らに対してより長く生きる権利を与えることに他ならないからです。そしてこの理屈でいえば、抗老化を行うことを否定するのは、そのまま老人を延命することに価値はない、というのと一緒で、高齢者差別だとさえ言えるでしょう。
また一部にはこのように革命的に人々の寿命が延びたならば、人は恐ろしく退屈な日々を送ることになるのではないか、と主張する人もいます。しかし、私に言わせれば、まったく逆です。寿命が延びることにより、人はその生命を最大限に利用して、能力を高めていくことが出来るでしょう。実際今日でさえ、しっかりとした教育を受け、探求心を持った人は退屈など感じる暇さえありません。それに人が興味を持つべきものがこの世から全く無くなるなんていうことは想像もできません。
それから、中にはこうした抗老化技術の開発をあたかも神様ごっこのようであるとして、自然に反するものであると否定する人々もいます。しかし、私に言わせれば、我々が発見出来るものを無視すること、そのほうが余程不自然なことです。我々人類はこれまでにも、車輪や火を開発し、その能力や苦手なものを補うことを実現させてきたわけです。
そして我々は今、人類が長い間恐れ続けてきたもの、老衰や虚弱に対して戦いを挑むわけです。それに、もしこれが神様ごっこに見えたとしても、おそらくそれさえも、結局は神の手のひらの上の出来事に過ぎないわけですからね。」
現在、オーブリー博士は大学でのSENS計画を進める一方、ネズミを延命させる事を競いあうメトセラマウス賞も主催している。
昨日の奇跡体験!アンビリバボーで「衝撃報告!20年後にヒトの寿命は1000歳になる」という特集をやってました。不老不死を実現している生物としてベニクラゲが登場し...
元放送作家でエッセイストとして知られる永六輔氏が、多国籍IT企業フィリップスにより極秘開発された「リバース・エイジングLEDアレイ」の実証人体実験に参加...
これが普及したら、頭の固いじーさんばーさんが死ななくなっちゃうじゃないか。ほっといても自動的に世代交代していくのを俺はすごく期待してたのに。
善人で生きている人は、死んだ後に天国にいけるから。とか考えるんだろうけど、老衰が無くなるってことは、ほとんど死ぬってことが考えられなくなるのと同じなのではないだろうか?
人間の興味がなくなることはないっていうけど、実際生きれる年を増やす前にいろいろと法律やらなんやらを変えなければならないとおもうね。40代以上の中卒の人とかが気軽に通える高校とか。
でも成し遂げられなかったらこの記事を思い出すことはないでしょう。ようするに記憶というものは曖昧であると。
ということは若返らせることもできるといっているんでしょうか。永遠に若い体かぁサイヤ人や波紋使いみたいだ。
いかんせん人生は短い、過去の人間を見れば分かるが、自分が残した成果なんてものは80年ぽっちの人生じゃ分からないものだ。せめて自分がやったことをわずかでも多く見てみたい。
人口や食料の問題は気にしても始まらない、それはいつか石油が枯渇するのを恐れているのとさして変わらないくらいの問題だ。いずれ無くなるものは無くなる。遅いか早いかだ。
あと、怪我や病気に関してだが、トカゲとかは肉体の一部が破損すると特殊な遺伝子が破損した部位のデータを引っ張り出して直すのだそうだが、人間にもその遺伝子は発動してないだけであるそうだ。
理屈はどうでもいいから、ただ長生きしたいという気持ちも理解できる。老いさらばえてまで生きていたくない、という気持ちも解るきがする。
考えても答えは出ないが、まあいいや。考えようが何しようが俺も他の人と同じく、寿命は限られているんだから。
60年代のアメリカでもティモシーリアリー博士なんかが、20世紀の終わりには老衰で死ぬ事は無くなるなんて言っていたが。
このままだって地球はあと千年保たなそうなのに、そんな技術が出来たら確実に人類が滅びるのを早めるだけだよ。
今日この人、J-waveのラジオ番組に電話で出演してた。もちろんこのニュースについてのインタビュー。
そもそも人間は200年以上生きられないような体の仕組みになっているという事は、それに意味があるんだろうに。
経済的に追いつかなくなってきた人から脱落してゆくのか・・・。"一期一会"とか"光陰矢のごとし"とかいう言葉も消えてしまう。
はんを推したような毎日の人生に刺激を求めて犯罪者が世に溢れかえるかも知れないし、人口問題や食糧、環境問題もどうなるのやら……。
長生きはしても、ボケてたら、そんな人が沢山いるようになったら、凄い困った事になるのではないのかと……。
・・脳はチップでも何でもいいさ。多少人格やらがかわっても自分が生きれたらいいだろ。定義なんて知らんよ。
1000年も生きてどうするんだよ。今どう生きるかさえ俺は大変なのに、1000年もどう生きるかなんて、俺なら生きる気失せて自殺するだろうね。前なんかの漫画であったなぁ。主人公達が不老不死の薬探してついに見つけるんだよ。でも主人公はこう言いながらそれ捨てちゃうのな。
まぁでも、自分の彼女には勧めるかもしれない。死んで欲しくないし綺麗でいて欲しいって言うエゴイズムが働いてね。自分が可愛いっていうナルシズムが働く人は、自分にやりたくなるんだろうね。
1000歳までもいきたくない!って人もいれば 永遠にいき続けたい人もいるわけだし、自分で寿命を選ぶ時代が来るのかな。
例えば去勢手術+家族とはもう二度と会わない、月面開発とか凄まじく危ない所に無償で出向く義務を負う。とか。
千年も生きていれば>113が言ってるように、差別だとか戦争だとかが下らないことだって悟り開くんじゃないのか?
「寿命が1000年あるのが当然である世界」が当然のものになってしまえばもはや問題はないだろうが、その世界への「移行期」というのを考えると、やはりそこが一番の困難であると思うし、人類が克服するには結構な年代がかかると思う。
現代でさえ、先進国のような豊かで便利な世界のすぐ隣に、今日食べるものもない世界が並列しているわけだから、1000年の寿命の人間と今までどおりの寿命の人間の対立が激しい時代がかなり続くことは容易に想像がつく。しかも、そんな便利な先進国にも先進国ならではの問題があるように、1000年の寿命の人間の世界にもその世界ならではの問題が生まれるはずだ。
要するに、人類「全体がそろって」次の段階にいく、というのができないことにすべての問題があるのであり、それじゃあどうしたらいいのか…そこらへんをふまえた面白いSF的な投稿記事がもっと読みたいんですよ俺は。サイトは本当に面白くて刺激的だし面白いことを書く人も確かにいるにはいるけれど、なんでほとんどはこんな想像力の貧困なやつばかりなんだ。
長寿国がのきなみ戦争を国外の代理戦争にしているのはそのため。発展途上国が戦争まみれなのもそれが理由。
1000年もあったら色んなことに挑戦できるなぁ。男に飽きたから女になってみよぉーっとか。事業が失敗しても平気だしね。
でも、こんな技術が普及するのは先進国だけ。途上国の人達はこんな先端技術の利益を享受できないのは、今の途上国の医療とかの現状を見れば明らか。この時点で寿命を延ばせる人はかなり限定されてくる。
そして、実際に人口増加が問題になっているのは途上国で、先進国の出生率は毎年下がっている。出生率が下がるのは、死ぬ危険と反比例しているから。死ぬ危険がなくなった状況では生き物は子孫を積極的に残そうとしない。
社会的に1000年生きる人とそうで無い人との間で対立が起きる、というのも、一般に技術が普及している状況になれば人それぞれの格差も小さくなるし、差別の問題は進んだ社会であるほど解消されていく。今の日本やアメリカなどの国の社会は、そのくらいのことは許容できる所までは成長してるんじゃないだろうか。というかそう信じたい。
俺は時間の感覚は1時間だとすれば、1時間/今まで生きた時間×そのときの感情 とか勝手に思っているから900歳ぐらいになると、時間がすごく早く感じると思うんだ。
実際技術が完成して、それを実行したところで1000年生きられるかどうかは1000年経たないとわからないし、それどころかいつ死ぬかもわからない。
なんでこんなに否定的なんだ?選択肢が広がっていいじゃないか。やっぱりすごい技術はすごいと認めようよ。その他の問題は1000年いきてるうちにおもいついてなんとかなるよ。
細胞の損傷がなくなるってことは若返るってことじゃないのだろうか?まあいずれにせよ死を選べるってことはいいことじゃないのでしょうか?
兼好法師も「人は40くらいで死ぬのがいい」と言っている通り、(40くらいで死ぬのは極端にせよ)やはり年老いたまま長く生きるのは個人的にはちょっと…。
裕福な人たちはいいよね、楽しいことがいっぱいあってさ、私みたいな貧しい者には生きるのがつらいよ、そしてそんな薬が開発されても手に届かない価格で、長生きできるのは金持ちだけなんだろうな〜あんなにヒゲをはやせるだけの余裕がほしい、、、神様は不公平だ、、もうたくさんです。
感情を除いた上で考えると、その技術が現実のものになることに物体の形状を1000年も維持できるということに何を異論を唱える必要があるだろうか。
全く不可能なことでも可能にしていく精神を持つことができないのであれば、1000年も生きる必要はないが、その精神を持つ人ならば、1000年でも足りないのではないだろうか。
技術うんぬんは彼(グレイ)以上に研究してない人が否定・肯定してるの読んでも説得力ないし、興味ない。発想を柔らかくしないと1000年生きても楽しめないよ。クローンに脳を移植って、近い内にありえる?
で、まず俺が思ったのは、たぶん「個人主義の社会」になるだろうね。血縁関係ですら浅いモノになるだろうね。家族も死なないんだしさ。そこで生まれる需要は「休憩」だと思う。100年休みたい、5年間寝てたい、マトリックスみたいに、100年寝てる間に語学を脳に習得したいとか。。。
まぁ俺らが生きてる間はこの1000年説はないだろうね。ってのが現実。よってこういう討論は「もし3億円宝くじ当たったらどうする?」と似てる。同じくらいの確率だろうなぁ。。。。。
この技術は最高じゃないか。嘘くさくはあるが、もしこの技術を手に入れられるならそれこそ悪魔に魂を売ってもいいぜぇ。
だいたい2000年も昔の親父が呟いた妄想を信じてるのは考える力が無いとしか思えない。そういうやつこそいなくなって欲しいね。
勝手にありもしないことを妄信し、自分自身くたばるのは止めはしないが、それに他人を巻き込むなんてご近所迷惑もいいところだ。
ベニクラゲは、死ぬ間際にまた子供の状態に戻るらしいから、1000年生きるったってずっと老人のままじゃないんだろう。
だけど、嫌な事は乗り越えたり、解決したりして、また次に面白いことが出てくる、と思うとずっと自分からは死のうと思えずに生き続ける気がする。
その前に環境問題とか人種、宗教間の対立とか他のいろんなことで地球が50年も続かないと踏んでいるけど・・・
ちょうどマイナスイオン風呂やトルマリン・ペンダントのようなものです。疑似科学と言われても否定は出来ないでしょう....
PROMOTIONS?一滴でも強烈な匂いがしますので、使う場所に気をつけてください不良グループにからかわれて有害排気物質のドラム缶の中に転落する列車内で同席した男性客が突然ゾンビに就寝中無意識のうちに起こる勃起現象若者の間で大ウケ!光触媒のうんこ陰嚢全体に適度な振動刺激(8000rpm)ムクムクメーター(ムクムク度チェック記録用紙付)思いやり=ウルトラビッグですね「蛍みたい・・」彼女の驚く顔が目に浮かぶようです

 

[ 199] 世界の処方薬売り上げトップ10と今後期待の新薬 | WIRED VISION
[引用サイト]  http://wiredvision.jp/archives/200603/2006033105.html

世界における処方薬の売り上げは、ヨーロッパや北米の伸びが鈍化しているにもかかわらず、初めて6000億ドルを超えた。
「こうした市場は、全体に占める割合こそ小さいが、成長が期待できるところでもある」と、IMSヘルス社のマレー・エイトキン上級副社長(企業戦略担当)は話した。
世界一売れた薬は、5年連続、米ファイザー社の高コレステロール血症治療剤『リピトール』だった。年間売上高は129億ドルで、2位の薬とは2倍以上の開きがあった。リピトールの後には、米ブリストル・マイヤーズ スクイブ(BMS)社と仏サノフィ・アベンティス社の抗血栓剤『プラビックス』、英アストラゼネカ社の胃食道逆流症治療薬『ネキシウム』、英グラクソ・スミスクライン(GSK)社の喘息治療剤『アドベアー』といった製品が続いた。
世界で最も売れた薬剤のリストから明らかに抜け落ちているものがある――バイオ医薬品だ。米国内では、貧血治療薬として米アムジェン社の2製品と米ジョンソン&ジョンソン社の1製品が、売り上げの上位10位以内に入っている。タンパク質から作られ、注射が必要なこうした薬剤はバイオテクノロジーに革命をもたらしたが、世界的に見るとまだそれほど影響を及ぼしていないようだ。とはいえ、バイオ医薬品は17%の伸びを示し、売り上げは530億ドルに達している。リストに載っている薬剤のほとんどは低分子、つまり20世紀初頭に製薬ビジネスに弾みをつけたものと同種の化学薬品だ。
売り上げは伸びているが、現在の大手製薬会社には革新性は欠けている。エイトキン副社長によると、2005年に主要マーケットで発売された新薬はたった30種類しかなく、1990年代の最盛期に比べると大きく減っているという。一方、明るい兆候としては、2005年には臨床開発段階の薬剤が2300種類あったことが挙げられる。最終段階のものとして、ガンの治療薬が96種類、心臓病の治療薬が51種類、抗ウイルス剤が37種類、関節炎や痛みの治療薬が28種類あると、IMSヘルス社は報告している。バイオテクノロジーによって開発される薬がいよいよ増えているが、このことは一般に考えられているほど大きな問題ではないと、エイトキン副社長は主張する。
「10年前に革新がどこで始まったかという点で見ると、歴史はそのままでいい」とエイトキン副社長は話す。例えば、多くの新薬は、高脂血症治療剤『プラバコール』に代表されるように日本企業や、抗ガン剤『タキソール』のように学術機関によって開発された。しかし、これらはいずれも、BMS社が供給し、巨額の売り上げにつながったのだ。
大手製薬会社が抱える問題はほかにもある。10億ドル単位で売れている薬剤はたくさんあるが、圧倒的な売上高を誇る薬剤がほとんどないことだ。売上高で2位の薬は、1位のリピトールの半分でしかなく、10位に入った米ワイス社の抗うつ剤『エフェクサー』の売上高は「わずか」38億ドルにとどまる。これはつまり、新薬の開発に成功したとしても、ジェネリック医薬品が生まれることによる売上高の穴が埋められない可能性があることを意味する。
BMS社とサノフィ社が、両社の主力製品であるプラビックスの特許をめぐり、カナダのジェネリック薬品メーカー、アポテックス社と和解を迫られた理由の1つも、この点にある。
しかし、米イーライリリー社と米アミリン・ファーマスーティカル社が共同で商品化した糖尿病治療薬『バイエッタ』、米セプラコア社の睡眠補助薬『ルネスタ』など、昨年発売された新薬の中に大きな可能性を秘めるものがいくつかあると、エイトキン副社長は強調する。さらに今後も、注目に値する薬剤が続々登場するという。とりわけ今年は、ファイザー社が初めて大々的に開発に取り組んだガン治療薬『スーテント』、サノフィ社が開発中の肥満治療薬『アコンプリア』という2つの主要な製品が登場する。
スーテントはすでに市場に出ているが、売り上げに関するデータはまだ得られていない。アコンプリアは米食品医薬品局(FDA)の認可待ちで、禁煙補助薬としては却下されている。心臓病の専門医の間には、この薬で心臓病のリスクが減る可能性があると歓迎する半面、副作用を心配する声もある。
アコンプリアは、マリファナ使用者に空腹感を覚えさせるのと同じ脳内レセプターをブロックすることで機能する。しかし、臨床試験で患者がアコンプリアの服用を中止するもっとも一般的な理由として、不安感などの精神的症状が出ることが挙げられている。シーダーズ・サイナイ医療センターの医師プレディマン・K・シャー氏は「これは『幸福感を覚えるレセプター』をブロックする薬だ。主な不安材料として、うつや自殺願望に悪影響が出る可能性があることが挙げられる」と説明する。ただ、それでもシャー氏はこの薬に大きな期待を寄せている。

 

[ 200] 2ちゃんねるの「終わり」とブログの今後 - nikkeibp.jp - from ガ島通信 メディア崩壊の現場を歩く
[引用サイト]  http://weblogs.nikkeibp.jp/gato/2005/06/2channel.html

前回の「ブログの終わりと始まり」に、たくさんのブロガーからトラックバックを頂きました。いろいろな視点があり参考になりました。何度も言いますが、物事は複雑です。この連載もある物事を一面的に切り取っているに過ぎませんが、ブログの双方向性がその一面性をフォローしてくれていると考えています。私の「視界」が狭くても、皆さんの意見を聞きながら考え方を見直し、整理することができるのは大変ありがたいことです。
「終わり」(ここでの「終わり」は前回とは意味が異なっています)と言っても、2ちゃんねるが閉鎖されたわけでも、消え去ったわけでもありません。私はこの「終わり」の意味を、2ちゃんがオルタナティブなマスメディアに成長できなかったと捉えています。
既存マスメディアでは、「怪しげなネットコミュニティの代表格」、「オタクやネット右翼の集う場所」などのレッテルを張られていますが、2ちゃんの魅力は真偽ではなく言葉遊びにあります。真実なのかウソなのか分からない面白そうなネタで言葉遊びをする。矛盾を突っ込んだり、応援したり、批判したりしながら書き込みが展開していくサイバーコミュニケーションです。
このような言論は一見無秩序に見えますが、そうではありません。広告やスパムコメントは、ボランティアの削除人が巡回して消去していますし、スレッドの話題と異なる書き込みやローカルルールを無視すれば2ちゃんの先輩たちによるアドバイスがあったりします。西村氏は「真偽は読者が判断すること」と発言していますし、2ちゃんねらーの「ソースを示せ」にも代表されるように、ある種のリテラシーも存在しています。
一時期猛烈に輝き、存在感を示した2ちゃんですが、なぜ「終わった」のか。なぜマスになり得なかったのかを解明するひとつのキーワードがリアルであると考えています。
ised@glocomでは、『オフ板は2ちゃんねらーが最後に行き着く場所だ』というコメントが紹介されています。このコメントは、「マトリックスオフ(公共の場所で、映画マトリックスに登場するネオをエージェントスミスが追いかけるという趣向)」を主催していたある人の発言です。
これは、2ちゃんがリアルへつながるコミュニケーションを模索していたことを示しています。他にも「うまい棒を持って選挙に行こう」、「湘南ゴミ拾いオフ」など、いろいろな試みが行われ、話題にもなりましたが定着しませんでした。リアルな行動すらネタ化されてしまいました。
これを最終的に決定付けたのが「電車男」です。「真偽不明」のネタだったはずのものが、本となって印刷され書店に積み上げられ、ワイドショーで語られ、人々の間で「確からしい」ものになっていく。次々と電車男関連本が出版され、映画、テレビドラマ化…。2ちゃんが紡ぎだした物語は、既存メディアに取り込まれ、消費されていきました。
ネタ物語のリアル化。この逆説によって、リアルを模索していた人たちは、既存マスメディアの軽薄さと、リアル世界のくだらなさを改めて思い知らされることになりました。「ウソから出たマコト」のような状況を冷ややかに見ていた2ちゃんねらーは、再びサイバーへ「引き篭もって」(決して否定的な意味ではありません。リアルを意識することが絶対善であるとは考えていません。あくまでマスメディアとしてどうなのかという視点ですのでご注意ください)いきます。
現在、2ちゃんは、細分化された各スレッドで「マターリ」とする場となっています。巨大な掲示板にもかかわらず、横のつながりを持たない小さなコミュニティの集合体になってしまい、マスメディアにはなり得ませんでした(リアルへ影響力を持ちすぎた2ちゃんを制御するため、西村氏らが電車男を「わざと消費させ」、リアルへの模索を失敗させたのかもしれない、とうがった見方が頭をよぎりましたが、これこそネタ文化2ちゃんの思うツボなのかもしれません…)。
ちなみに、2ちゃんは依然として大きな存在であるように見えますが、これは常に取り上げるものが一歩時代遅れである既存マスメディアの特性によるもので、消費の最終段階に入っているだけです。現状の「マターリ」が続く限り、2ちゃんがこれ以上社会的存在感を増すことはないでしょう。
では、2ちゃんとブログの違いはどこにあるのでしょう。ブログは「@名無しさん」が大半の2ちゃんに比べて、匿名にせよハンドル名(HN)にせよ、一定期間書き続けることによって管理人や運営主体の同一性が担保される構造となっています。そして、ほとんどのブロガーが、イベントや旅行、買い物など身の回りの出来事や家族や友人との付き合いや悩みなど、リアルに根ざしたエントリーを立てています。
それらは、アクセスも少なく、コメント欄もレスがないか、友人や家族からのものですが、そのようなブログが今後はさらに増えていくでしょう。ブログの普及は「匿名と実名」や「サイバーとリアル」論争をあっさり乗り越えていく可能性があります。「ブログ終焉」論争でも、「リアル」と言う言葉がかなり使われています。私には、この反応こそが、ブログがリアルに根ざしたコミュニティツールへ変貌を遂げようとしていることへの、リアルとサイバーを切り分けたいネットワーカーたちの反発、不安の表れではないかと思えるのです。
新聞社では、事件事故、漁業補償交渉や合併・地方自治などを取材する一方、中高生向け紙面のリニューアルを担当し、「紙」媒体の価値と限界を認識。2004年9月にブログ「ガ島通信」をスタートする。既存メディアの問題点と意識改革、新しいメディアと参加型ジャーナリズムについて議論している。

 

[ 201] hxxk.jp - 自転車で刑事処分を受ける可能性が今後増加します
[引用サイト]  http://hxxk.jp/2006/03/29/2357

自転車の悪質な道路交通法違反行為に、いわゆる「赤切符」を用いた取締りを強化するという流れになりました。そこで、どういった行為が道路交通法違反行為にあたるのかをまとめてみました。
警察庁は25日、警告を無視して赤信号を渡ったり、歩行者近くを危険な猛スピードで走るなど悪質な違反を繰り返す自転車運転者に、刑事処分の対象になる「赤切符」による取り締まりを積極的に進めていくことを決めた。
このまま自転車の交通違反が増えれば、自転車にも交通反則通告制度が適用されるように道路交通法が改正され、頻繁に取締りが行われるようになる......かもしれません。
ということを予測していましたが、そういった改正はなくそのまま取締りが強化されることになりました。
自転車は道路交通法上は車両(軽車両)にあたり、信号無視や2人乗りは取り締まり対象になるほか、一時停止などの交通標識には原則従わなければならない。
しかし、自転車は駐車違反や一定速度内のスピード違反など、比較的軽い交通違反に適用される行政処分の「青切符」の対象にならず、自転車の取り締まりは罰金などの「前科」につながる赤切符しかない。これまで警察は取り締まりに慎重だった。
自転車の違反に対して青切符が適用されることはないということも、自転車には反則金という概念はないという記事で触れました。
詳しくはその記事を読んでいただければ分かりますが、交通違反通告制度 ( いわゆる青切符 ) が適用されるのは自動車や原動機付自転車の運転者に限られているため、軽車両である自転車については適用されない、ということです。
自動車運転免許や原動機付自転車運転免許をお持ちの方であれば、公道におけるルールは理解していると思われますが、自転車には運転免許は必要ありません。
運転免許を持っている人の場合、自転車に乗る時も自然とそれらのルールが思い出されて慎重な運転になると思います。
しかし、運転免許を持っていない人の場合、信号無視や一時停止義務違反などのポピュラーなもの (?) ならともかく、知らず知らずのうちに違反となってしまうようなルールがいくつか存在します。
たいていは親から、あるいは学校の自転車教室などで習うものですが、ここで改めてまとめてみようと思います。
極端な話、今後はこういった根拠を元に過剰な取締りがなされてしまう可能性も考えられるので、知っておいて損は無いと思います。
この場合でも並進できるのは 2 台だけで、公道における 3 台以上の軽車両の並進はいかなる場合も認められていません。
そちらに詳しく書いてありますが、要するにという標識がある場所で警音器を鳴らさなければならない場合や見とおしのきかない交差点などを通行する場合を除き、むやみに
よって、自転車で通行している際に、進路上に歩行者がいて邪魔だからベルを鳴らしてどかせるということはしてはいけません。
とあるため、例えば前を歩く歩行者が急に自転車の進路上によろけてきた、といった場合などは一概に違反とは言えないでしょう。
( その場合は、直後にも自転車が走行して近づいているのでもなければ、まず停止をすることが先決だとは思いますが。 )
また、このケースでは「ベルを鳴らすこと」についてのみ考えていますが、実際は歩行者に対してベルを鳴らすような場面では、本来通行すべきではない歩道を通行するという違反や、車道と歩道の区別が無い道路において前を歩く歩行者にベルを鳴らしてどかせ、そのままその脇を減速せずに通行するという違反が発生している可能性があります。
公安委員会は、道路における危険を防止し、その他交通の安全を図るため必要があると認めるときは、軽車両の乗車人員又は積載重量等の制限について定めることができる
また、 16 歳以上の運転者が、補助椅子に幼児 1 人を座らせて自転車を運転することは認められているという記述を見かけたのですが、それは全国的にそうであるのか、都道府県あるいは市町村の条例あるいは施行規則で認めているのか分かりません。
車両等は、夜間(日没時から日出時までの時間をいう。以下この条及び第63条の9第2項において同じ。)、道路にあるときは、政令で定めるところにより、前照灯、車幅灯、尾灯その他の灯火をつけなければならない。政令で定める場合においては、夜間以外の時間にあつても、同様とする
車両は、歩道又は路側帯(以下この条において「歩道等」という。)と車道の区別のある道路においては、車道を通行しなければならない
自転車は軽車両に分類され、軽車両は車両に含まれるため、自転車は原則として歩道を通行してはならないということになります。
この場合は「自転車及び歩行者専用」ということが示されており、たいていは「自転車通行可」という補助標識が併せて掲げられているので、この場合は自転車の通行が可能であると捉えて良いでしょう。
軽車両は、前条第1項の規定にかかわらず、著しく歩行者の通行を妨げることとなる場合を除き、路側帯(軽車両の通行を禁止することを表示する道路標示によつて区画されたものを除く。)を通行することができる
車両は、道路(歩道等と車道の区別のある道路においては、車道。以下第9節までにおいて同じ。)の中央(軌道が道路の側端に寄つて設けられている場合においては当該道路の軌道敷を除いた部分の中央とし、道路標識等による中央線が設けられているときはその中央線の設けられた道路の部分を中央とする。以下同じ。)から左の部分(以下「左側部分」という。)を通行しなければならない
車両(トロリーバスを除く。)は、車両通行帯の設けられた道路を通行する場合を除き、自動車及び原動機付自転車にあつては道路の左側に寄つて、軽車両にあつては道路の左側端に寄つて、それぞれ当該道路を通行しなければならない
基本的には自転車は車道、歩行者は歩道を通行するため、お互いがお互いの通行を妨げることはありません。
軽車両は、前条第1項の規定にかかわらず、著しく歩行者の通行を妨げることとなる場合を除き、路側帯(軽車両の通行を禁止することを表示する道路標示によつて区画されたものを除く。)を通行することができる
と定められており、例えば車道と歩道が段差などによって区別されておらず、自転車も歩行者も路側帯を通行するというケースは充分に考えられます。
と定められているため、歩行者を押しのけて通行するといったことはしてはならないということになります。
車両等の運転者は、当該車両等のハンドル、ブレーキその他の装置を確実に操作し、かつ、道路、交通及び当該車両等の状況に応じ、他人に危害を及ぼさないような速度と方法で運転しなければならない
と定められています。以前改正道路交通法の一部施行に関するメモで自動車又は原動機付自転車の運転中における携帯電話等の使用について触れましたが、自転車の運転中における携帯電話の使用自体はこれは含まれません。
しかし、携帯電話の使用自体に罰則が無くても、使用することによって片手運転となり、ハンドルやブレーキを確実に操作できなくなってしまうため、違反となると考えるべきでしょう。
道路を通行する歩行者又は車両等は、信号機の表示する信号又は警察官等の手信号等(前条第1項後段の場合においては、当該手信号等)に従わなければならない
これは自転車に限らず歩行者でもそうなのですが、「自動車でなければ信号無視をしてもオーケー」なんてことは無いですよという意味で書いておきます。
車両等は、交通整理が行なわれていない交差点又はその手前の直近において、道路標識等により一時停止すべきことが指定されているときは、道路標識等による停止線の直前(道路標識等による停止線が設けられていない場合にあつては、交差点の直前)で一時停止しなければならない
杉本哲太氏の飲酒運転と、福島みずほ氏の間違った法律知識にて詳しく解説していますが、要するに自転車であっても飲酒運転は違反行為であるということです。
なお、罰則については杉本哲太氏の飲酒運転と、福島みずほ氏の間違った法律知識のコメント欄にて意見を交わしていますが、酒酔い運転については自動車と同じ罰則が適用されるようになったという情報があるものの、道路交通法の条文だけを読む限りではそのような解釈には至らないのではという疑問点が残っています。
この法律は、道路における危険を防止し、その他交通の安全と円滑を図り、及び道路の交通に起因する障害の防止に資することを目的とする
あくまで危険を防止し、交通の安全と円滑を図るものであるので、これまで挙げた違反行為を行ったからといってその全てが取り締まられ、罰則を受けるということはありません。
しかし、これまでは「自転車だから捕まらない」という風潮があったものが、それによって危険を助長してきていたがために、今後罰則を受けてしまう可能性が高くなったのは事実です。
「罰則を受けるから」守るのではなく、「罰則があるということはそれだけ危険につながるということだから」守るという意識につながってもらいたいと思います。
本文でタンデム自転車は例外になっているのですが、各都道府県の条例レベルで、許可・不許可が明示されているケースが多いです。
車の交通違反のようにある程度点数稼ぎのための乱発されるのは警戒したいけど、自転車の交通規則を徹底するというのは賛成だし、はっきりいってこれは小学校とかの授...
この文を読み、ベルを鳴らさないようにしてみました。しかし、歩行者の後ろを気付くまでゆっくり走るか、「すみません。」と声をかけるかしか方法はなく、どちらも歩行者との雰囲気は微妙でした。気が向きましたら、どうしたらいいか教えてください。
路側帯の無い歩行者混在の道路は「待ってあげる」のが基本です。もしくは自転車を降りて早足で歩行者を通過しましょう。
おのひろきさんの weblog はしばしば参考にさせていただいているのですが、今回例示いただいた記事は未読でした。
ベルは難しい問題ですよねえ。法律を厳密に解釈するなら歩行者に向けて鳴らすのは良くないのですが、人によっては邪魔だと思って鳴らすのではなく「自転車が近づいていますよ」と存在をお知らせするために鳴らしている人もいますし。 ( 同じような例に自動車のサンキューハザードもありますね。本来使うべきでないものなのですが、お礼の意味で使うという )
どうすれば良いのか、というのは本当にケースバイケースだと思います。私は専ら近所のサイクリングロード ( 歩行者・自転車専用なのだけど歩行者はほとんど通らない ) を走っていますので、あまり深く考えなくて済んでいるのですが、生活道路などではそういうわけにもいきませんよね。
もっとも、自転車側が ( 歩行者に対しては ) 交通強者であることを自覚していれば、今回のような厳密な解釈および罰則の適用にいたらなかっただろうと考えると、お互いのことを考えて道路を通行することが第一なんだなあと思いました。 ( それは自動車と自転車の関係にも帰結するのですが )
路上駐車が無い前提で、自動車が走るレーンと自転車が走るレーンと歩道が明確に分けて確保されれば自転車乗りとしては非常に嬉しいのですが。
昔、自転車で路側帯を走っていたところ、警察官から歩道を走るようにと注意を受けたことがあります。
ついでに路側帯走行中、後ろから車にはねられたときも、「歩道を走らないからこうなるんだ!」と警察官から説教をうけたこともあります。
体験談と主観を以って言わせていただきますが、警察官自身が道交法を正しく理解していないケースが多々あります。
1412 さんの事故の場合も詳細が分からないので断定はできませんが、歩道を走らずに路側帯を走っていて自動車にはねられたのならば、責められるべきは自動車の運転手だと思います。
現行法と現状を照らし合わせてみると、法律に対して道路事情が追いついていないというのが実情です。車道の走行を厳密に行わせるならば 1411 で私が書いたように、自転車専用レーンを車道に設けるような方針になれば、少なくとも歩行者対自転車、自転車対自動車の事故は激減するはずですから。
今回の記事を書いた目的ですが、「現行法がこうなっているんだから自転車乗りはこれらを厳守せよ ! 」というつもりは無く、「警察が法的根拠を以って取締りを強化するという方針を打ち出してきたのだから、『知らなかった』で捕まってしまうことのないよう、そしてルールを知った上でその道の実情に即した安全な運転を心がけてもらおう」ということです。
現実に、歩道を走った方が安全な道路もありますし、逆に歩道を走ったら危険な道路もあります。それを勘案せずに「歩道走行の方が危険だ」「いや車道走行の方が危険だ」と議論するよりも、まずは現行の法律がどうなっているかを知っていただき、それを知らずに危険を誘発させてこれ以上の締め付けが強くならないよう、そして現状に沿った法律に改正されていくように動いていくことを願っています。
記事の主旨とはちょっとずれてしまって恐縮ですが、6月から民間業者による駐車違反摘発が可能になると、バイクやスクーターが軒並みやられる可能性がありそうです。これもまさに係員による恣意的場当たり的な対応となりそうで、繁華街にちゃんとしたバイク置き場がないのに、法律だけ変わってしまうという大問題だと思っています。
子供にも同じように刑罰を与えるとは考えにくいのですが、補導する事の根拠になったりすることがあり得るのではないでしょうか。または、「こんな運転ばかりしていると手錠をかけられちゃうよー」と脅したりとか。 ( そういった教育や講習はあまり感心しませんが )
よく誤解されているのですが、免許の違反点数は行政罰であり、刑罰とは異なります。「免許を持っていないから捕まっても痛くも痒くもない」ということはありません。
ただ、運転免許を持っていれば逮捕された際に身分を証明する物があるのに対して、運転免許証を持たない場合は身分を証明する物が無い可能性が生じてきます。その場合は身元引受人が迎えに行くまで身柄を拘束されてしまい、結果免許の有無で扱いが変わってしまう……ということはあり得るかもしれません。
と、 1416 さんの文章を見ると、「子供や免許を持たない人に罰則を適用するのは現実的には無理」ではなくて、「子供や免許を持たない人にこれらの違反行為をせずに交通法規を遵守してもらうことが無理」というニュアンスですね。
確かに、運転免許を持っていれば知っていて当たり前なことでも、持っていなければ知らないようなことも多いですし、厳罰化をするのなら併せてルールの周知を徹底して欲しいものです。
聴覚障害者への配慮というのは盲点でした。その場合だとベルを声かけや挨拶に置き換えても同じですし……。
やはり自転車は歩行者と同じ部分を走らない ( かつ自動車と極端に接近しなくて良い専用レーン等を整備 ) というのが解決方法でしょうか。
それはさておき、駐車禁止の取締りの民間業者への委託開始は次回に書こうと思っているネタです。これも色々と調べると色んなネタが出てきそうです。
仰る通り、いきなりということはまず無いでしょうね。あくまで危険防止が目的であるので、注意に従うようであれば無闇に切符を切ることはしないでしょう。
冒頭で引用していますが、「警告を無視して赤信号を渡ったり、歩行者近くを危険な猛スピードで走るなど悪質な違反を繰り返す自転車運転者に、刑事処分の対象になる「赤切符」による取り締まりを積極的に進めていく」と、警告を無視したり違反を再三繰り返す輩が対象だということですので。
以前友人から交差点で歩行者用の信号がなく横断歩道があり自動車用の信号だけある場合、歩行者は自動車用信号が赤でも渡っていいと聞いたのですが本当でしょうか。
たしかに見晴らしがいい交差点や交通量が極端に少ない交差点では歩行者用信号がないところが多い気がします。
信号機というのはあくまで「道路の交通に関し、灯火により交通整理等のための信号を表示する装置」ですので、歩行者用信号機が無く、かつ横断歩道がある場合ならば左右の安全確認を怠らなければ横断して良いのではないでしょうか。
道路交通法第 38 条 ( http://www.houko.com/00/01/S35/105.HTM#038 ) にて、「横断歩道等によりその進路の前方を横断し、又は横断しようとする歩行者等があるときは、当該横断歩道等の直前で一時停止し、かつ、その通行を妨げないようにしなければならない」とあり、また「横断歩道等(当該車両等が通過する際に信号機の表示する信号又は警察官等の手信号等により当該横断歩道等による歩行者等の横断が禁止されているものを除く。次項において同じ。)又はその手前の直前で停止している車両等がある場合において、当該停止している車両等の側方を通過してその前方に出ようとするときは、その前方に出る前に一時停止しなければならない」とありますので、「歩行者用信号機も自動車用信号機も無い横断歩道または自転車横断帯」も、「自動車用信号機のみがある横断歩道または自転車横断帯も、横断中または横断しようとしている歩行者又は自転車がいる場合は車両等に一時停止の義務があると解釈できるのではないでしょうか。 ( ただし、現在の自動車の運転マナーを見る限り、自動車用信号機が赤の場合は青になるまで横断するのを待った方が安全であるとは思います。 )
ただし、自転車の場合は「歩行者専用信号機と車道の信号機」が混在する場面では車道の信号機に従う義務がある点に注意が必要です。
ヨーロッパの自転車王国であるオランダに3ヶ月ほど滞在したことがありますが、大きな道路では大抵、車道・輪道・歩道と3つのレーンが設けられており、歩行者と自転車との棲み分けが出来ていました。 しかし日本では、自転車に車道走行させることは危険だと言う判断から「歩道の通行を黙認する」という暫定的な判断から、何年経っても何の手も打っていないとの感は否めません。 公安と国交省という縦割り社会の欠陥が、モロに出た結果だと思います。 まず、すべきは「(5)運転ルールのアピール」です。
最近、歩道を走るバイクが増えているのも、自転車が歩道を走らざるを得なくなった原因への対処を、長期間ほったらかしにしてきた行政にあるのではないでしょうか? 勿論(6)は論外ですが。
運転ルールのアピールができていないというのに非常に同感です。今回この記事でまとめたことは道路交通法に書いてあることを簡単に抜粋しただけなのですが、それに対して多くの注目 ( 記事作成から今日までの 12 日間でおよそ 30,000PV ) が集まったということは、やはり一般市民 ( 特に運転免許を持たない方たち ) にはルールが浸透していないことの現れだと思います。
1411 や 1415 でも書いていますが、ゆーぼーさんがオランダで見てこられた「車道・輪道・歩道」という棲み分けができるようなインフラ ( 道路ももちろんそうですが、それによって利用増加が見込まれる自転車の駐輪施設など ) が今後整備されることを願います。
俺の住んでいるところは車道のぎりぎりにあらゆる罠が仕掛けられている。いかにして自転車の連中を車道側に転倒させようかという卑劣な罠だ。
これは自転車に乗っている人たちを死に追いやろうとすると共に車を運転する人たちを交通事故加害者に仕立て上げようとする見えざる権力者の陰謀としか思えない。
第 7 条の条文がありましたね。すっかり失念して「歩行者用信号機」という考え方に囚われすぎていました。
自宅近辺では歩行者用信号機が無い交差点というのは無いのですが、そのような場合はやはり「赤・青・黄」の三色信号機が車両・歩行者用の信号機を兼ねる形になるというのが自然な解釈でしょうかね ?
また、他にも私の解釈が間違っている点はあると思いますので、「その解釈はいかんだろう」という点がありましたら遠慮なくご指摘ください。
同一トラックバック 8 連発の処遇をどうしよう。「コピったので〜」という理由でトラックバックというのは別のネタに使えそうですが、時間が取れないので迷い中。
思わず「左に寄れや!」と怒鳴ってしまったのですが、「なんちゅ言い方や!どこに左寄れって書いてあるねん!」と言って逆ギレされ、いきなり襟元をつかまれました。
こういう年齢になってしまった人をどうするかと考えると、安易かもしれませんが、取り締まり強化という形で周知するのもいたしかたないのかなと思いました。
自転車の二人乗りについては、記事にあったように、千葉県条例でもも認められているそうです。すなわち、16歳以上の運転者が6歳未満の幼児を、座席装置をつけた自転車にのせることはOKだそうです。孫の幼稚園への送迎の必要にかられ、警察署の交通課で確認してもらいました。
状況が分からないので絶対にこうしろとは言えないのですが、怒鳴るのではなく言葉を選んで注意する、あるいは自分が一歩引いて停止してやり過ごすという対応もあったのではないでしょうか。 ( 特に、注意をしたら襟元を掴んでくるような方ですし。これは結果論ですが。 )
左側通行が原則ということが周知徹底されていれば、こういうことが起こる可能性は低くなると思うので、児童・生徒・学生に限らず、成人においてもなんらかの形で講習が行われると良いですね。取り締まりの強化だけで周知がなされるというのは本末転倒だと思いますし。
確認情報ありがとうございます。都道府県条例で定められているということは、地域によっては座席装置を付けていても不可というところもあるかもしれませんね。現在、私の周りにはそういった年齢の子供はいませんが、いずれそういう必要が出てきた際には確認をしてみようと思います。
「送迎の必要が出てきたので、交通課に確認を取る」という姿勢はご立派だと思います。きっと日々の送迎の時もその注意深さが生きることでしょう :-)
自転車(人力車両)が違反車両の規定であるならば、三輪車も二輪車も自転車であるため、おそらく違反になるんでしょうね。
ただし、本文冒頭で引用したように、「悪質な違反を繰り返す自転車運転者」への取り締まりを強化するということですので、たとえば幼児の運転する三輪車が「歩行者近くを危険な猛スピードで走る」ことで違反になることはまず無いでしょう。信号無視の方は分かりませんが。
深夜の交差点でライト消したパトカーに待ち伏せされててやられました。信号無視です。危うく前科つくところでした。
ちなみに警告とかは一切無かったです。パトカーはライト消して待ち伏せです。待ってましたとばかりに交差点わたりきった時にライトつけられました。
自動車に乗るようになると、試験のために道路交通法をしっかりと学ぶので、同じ人でも自転車ほど違反は多発しなくなると思います。私も、運転免許を取得する前と取得した後では自転車の運転に対する意識が大きく変わりましたし。
自転車の場合、「どうせ自転車だし」という意識で違反しているというよりも、そもそも違反行為であるという自覚が無いままに違反しているケースが多いのではないかなあ、と。
鈴を付けるというのは簡単で良いアイデアですね。同じ音でも「警音器」であるベルに比べると不快感もそう無いでしょうし。
「歩行者の通行の用に供し、又は車道の効用を保つため、歩道の設けられていない道路又は道路の歩道の設けられていない側の路端寄りに設けられた帯状の道路の部分で、道路標示によつて区画されたもの」を路側帯というんでしたね。混同してしまっていました。 1412 さんの発言および 1414 での私の発言は「路肩」について話していると置き換えてください。
注意や警告無しで……というのは自動車のスピード違反の取締りではよくやられる手法ですね。詳しい状況が書かれていないので何とも言えませんが、昼夜関係なく信号は守るべきだと思います。
完全に自動車の往来が無い場合でも守るべきか ? という話になるかもしれませんが、そういった違反が積み重なってきたから取り締まりが厳重になってきたという流れを考えると、自動車が通っていないとか警察官が周りにいないとかにかかわらず、信号には従った方が良いと私は考えます。
今月から駐車違反の民間委託が開始されてニュースなんかでも沢山取り上げられていますけど、自転車に対しての道交法違反を取り上げてるニュースも多かった気がします...
解釈については大きな間違いは無いと思います……が、むやみに法律をふりかざして反論すると、トラブルになることもあるので穏便に反論してくださいね。
一時停止についてですが、私はできるだけやって欲しいと思います。歩いているときでも、自分が自転車に乗っているときでも、自動車を運転しているときでも、突然わき道から飛び出してくる自転車に危険を感じることがあったので、一時停止の標識があるところはもちろん、一時停止の標識が無いところでも充分に気をつけてもらいたいなと思います。
それにしても、バイクの駐輪問題は大変そうですね。私はバイクには乗りませんし、自転車で向かう場所も特定の 2 〜 3 ヶ所しかないので困っていませんが、駐車違反に関する法改正において、バイクのことが考慮されていないということが改めて浮き彫りになった話もあるようです。
確かに、歩行者のマナーも悪くなってきていると感じますね。以前福岡市の天神に買い物に行った際に、救急車がサイレンを鳴らし、「緊急自動車が通過します」とスピーカーで注意喚起しながら交差点を左折しようとしていたのですが、そこにいた大勢の歩行者は、知らん顔で横断を続けていた……という光景をバスの中から見ました。
車両であれば緊急自動車を優先させる義務があり、それを守らなければ罰則があるのですが、歩行者の場合は罰則はありませんし、また緊急自動車であっても交差点では減速して安全確認を行うべきであるのですが、救急車を足止めしてまで横断を急ぐ理由って何だろうと思いました。もしかしたらその救急車で自分の家族や友人・知人が搬送されているという可能性だってあるだろうに……と。
家庭や学校でのマナーの教育が近年なされなくなってきているのかもしれませんが、こういった交通に関することに限らず、なんだかみんな想像力が乏しくなってきている気がします。
・一時停止義務が定められてる交差点に一時停止せずに進入したら ? →自動車にはねられるかもしれない、あるいは歩行者をはねてしまうかもしれない
・メールを打ちながら赤信号を渡ったら ? →歩行者への注意が不充分な自動車がつっこんでくるかもしれない
罰則や処分といったレイヤーではなく、何かしら自分の身あるいは他人の身に対しての危険が及ぶことに想像を働かせれば、自然とそういった行為はできなくなると思うんですけどね……。
厳罰化については、今朝の新聞で重大事故に関しては罰則が強化されるというニュースもありました ( 今手元に無いので詳しくは後日書くかもしれません ) 。
「余計なトラブルに関わりたくないから」「貧乏だから、罰金が勿体無いから」法律を守るというのも、動機としては充分じゃないでしょうか。
この記事に対するご意見やご質問、ご感想などありましたらこのフォームに簡潔に記入して下さい。

 

[ 202] ジョブズからの手紙:「DRMは無意味だし、今後も決して役に立たない」 - Engadget Japanese
[引用サイト]  http://japanese.engadget.com/2007/02/06/letter-from-apple-steve-jobs-on-drm/

ジョブズからの手紙:「DRMは無意味だし、今後も決して役に立たない」by Ittousai Feb 6th 2007 @ 4:00AMアップルのCEO スティーブ・ジョブズが、iPodとiTunes StoreのDRM(デジタル著作権管理)について、さらにDRM全般とオンライン音楽販売の未来について語る文章"Thoughts on Music"を公開しています。内容はアップルのFairPlay DRMに対する不満やEUからのオープン化要求を受けて、オンライン音楽販売とDRMの現状について、今後考えられる三つの選択肢について語るというもの。関連企業の代表者がこうした主題について語る場合はどうしようもないポジショントークに終始することがほとんどですが(例:「アーティストへの正当な支払いが」「レコード会社が要求するから仕方なく」)、この文章ではDRMのない状態が消費者にとって最善であるだけでなく、さらにDRMがネット上の違法コピー防止には何の役にも立たないし今後も無意味であること、またDRMフリーのオンライン音楽販売がMSやアップルといった企業だけでなくレコード会社(とアーティスト)にとっても利益をもたらすことを率直に認めた非常に意義深い内容となっています。デジタル著作権管理に興味のある方はもちろんiPodユーザ、「その他」プレーヤを使っている方もリンク先から一読をおすすめします。日本アップルのサイトには今のところ見あたらないため大意だけ要約+注を加えて抜き出すと(営業トークっぽい部分は略)、・現状DRMが存在するために、ある会社のオンラインショップで買った曲は他社のプレーヤでは聴けないといった問題がある。アップルは再生できる台数や機器をFairPlay DRMによって制限するという条件で、四大メジャーレーベルからiTunes Storeでの楽曲販売ライセンスを取りつけた。しかしDRMが破られた場合、数週間以内に修復できなければすべての楽曲を引き揚げるという契約がある。しかしDRMは、どんなに高度な暗号技術を使ったとしても、プレーヤで再生(復号)できるように鍵も渡す必要がある以上、破れないプロテクトを作ることは理論上不可能。せいぜい隠す>見つけられる>別の場所に隠す、くらいしかできない。・三つの未来1. 現状維持アップルの店で買った曲はiPodでしか聴けず、マイクロソフトの音楽サービスではマイクロソフトの製品で、ソニーではソニーといったように上から下まで囲い込みで互換性がない。とはいえ、現状でも広い選択肢はあり、イノベーションも続いているから消費者にとっては悪くない。(編注:ここはまあジョブズ主観)2. アップルがFairPlayを他社にライセンスするDRMが本質的に「隠しごと」に頼る不完全なものである以上、秘密を共有する企業が多くなれば漏洩の危険も増える。プラットフォームが増えれば破られたときの対応にも時間がかかる。よってレコード会社との契約を守れなくなるという結論に達した。3. DRMを完全に放棄する消費者にとってはベスト。プレーヤも店も自由に選べる。アップルも歓迎する。レコード会社が許さないというが、そうともいえない。DRMは違法コピーを防ぐためには何の役にも立ってこなかったし、今後も決して役に立たないからだ。なぜなら、音楽会社はアップルや他のオンライン音楽販売にDRMを要求する一方で、まったく同じ曲をプロテクトの存在しないCDで販売している。CDで販売される曲と比べれば、オンライン販売はほんの数%にすぎない。CDがあるかぎりネットでの配布は防げない。また、DRMは役に立たないだけでなく副作用もある。DRMシステムを開発維持するためには多大なリソースが必要となり、大企業しか参入できない障壁となっている。これがなくなれば、さらに多くの企業が音楽サービスに投資することになり、またプレーヤの競争も活発になる。レコード会社にとっては利益にしかならない。・結論レコード会社は欧州の企業が多い(注:欧州は消費者保護や独占禁止や打倒米国企業者の関係でDRMへの圧力が強い)。アップルに他社へのFairPlayライセンス供与を求めるよりレコード会社を説得してくれ。(ここまで)というわけで、率直な部分と「アップル独自設定」な部分が混在しているだけかえって質が悪いという見方もないわけではありませんが(特に選択肢2.や結論の部分)、「xxビット暗号だから破れない」だとか「DRMがなければアーティストが困る」といった明らかな営業トークではない言葉がオンライン音楽販売のトップ企業から出てきたという意味で興味深い動きです。DRMが本質的に破られやすいものであること、またDRMがあってもなくてもCDが存在するかぎりコピーは止められないこと(表玄関全開で裏窓だけ厳重にするくらい意味がない)、 DRMが役に立つ場合があるとしても費用対効果で考えるべき、といったことは以前から多くの人が語ってきた大前提ではあるものの、興味のない一般には「頭のおかしい何でもフリー論者のたわごと」くらいにしか思われていないだけに、ジョブズという人物から平易な言葉で語られたというだけでも意義があります。ここから先の突っ込みどころを挙げるなら「選択の自由といいつつ、FairPlayで囲い込み商売を続ける言い訳にしかなってない」といったところですが、レコード屋 vs プレーヤメーカー vs 客の3Pゲームである以上、自分が得している部分は隠しつつ他の2プレーヤ同士をぶつけるように持って行くのは仕方のないことです。
(要約のためのメモ書きをおまけに付けます。完全な訳では全然ないところに注意。無断転載もいいところですが、アップル日本に本物が掲載されたらリンクに差し替えます。)iPodとiTunes storeの成功によって、多くの国や機関がFairPlay DRMを「オープン」にするよう呼びかけている。iTunes Storeで購入したDRM楽曲を他社製の音楽プレーヤやソフトウェアで再生できるように、また他社の音楽サービスから購入したDRM付き楽曲をiPodで聴けるように。まず現状とそこに至った理由を分析したのち、将来考えられる三つの選択肢を述べる。まず、iPodは「オープン」な形式に対応している。DRMなしのmp3やAACフォーマットを再生できる。CDからインポートしたファイルはmp3やAACに変換されるため、プラットフォームを問わず再生できる。問題はiTunes Storeで販売する(DRM縛りつき)楽曲。アップルは楽曲の権利を持っていないため、音楽の販売にはレコード会社から配布のライセンスを受けねばならない。主要な相手はいわゆる「big four」と呼ばれるレーベル、つまりユニバーサル、ソニーBMG、ワーナー、EMI。この4社は世界の音楽の70%以上の権利を持っている。アップルが音楽販売のためアプローチしたとき、四大レーベルは違法コピーを強く警戒して保護を要求した。答えはiTSから購入する曲を秘密のソフトウェア(FairPlay DRM)で包むことにより、承認を受けていない機器で再生できないようにすることだった。交渉の結果、アップルは当時としては画期的な「5台までのPCで視聴可」「台数無制限のiPodに転送可」という利用権を取り付けた。現在でもほとんどの音楽サービスより融通が利く。しかしこの契約の条件は、もしiTunesのDRMが破られた場合、数週間以内に修復しなければすべての楽曲を引き上げるというものだった。違法コピーを防ぐため、DRMは特定の認証済み機器でしか再生できないようにプロテクトをかける必要がある。つまりもしDRMのかかった曲がインターネットで公開されても、ダウンロードした人のプレーヤでは再生できないようにする。このため、DRMは「秘密の鍵」を使う。秘密(の鍵)を使わずにコンテンツを保護する方法は存在していない。つまり、どんなに高度な暗号を使って曲をロックしたとしても、ユーザのコンピュータや音楽デバイスで再生するためにはかならず解読のための鍵を「隠す」必要がある。秘密を隠す方法に依らないDRMを実装できたものは誰もいない。問題は、世の中には頭の良い人が大勢いて、中には自由に使える時間があってそうした秘密を公開したがる人もいること。そのため、DRM企業は新しい隠し方を考えて頻繁にソフトをアップデートする必要がある。アップルのFairPlayは何度か破られたが、そのつど修正してきた。この背景を踏まえて、将来のための三つの選択肢について考えよう。第一は現在の路線を続けること。アップルを含む企業は「上から下まで」のプロプライエタリな(互換性のない)システムで競争している。マイクロソフトのZune storeで買った曲はZuneでしか聴けず、ソニーのConnectで買った曲はソニーのプレーヤでしか聴けない。現在の状況はこれ。消費者には広い選択の自由があり、革新的な製品が次々と登場している。プロプライエタリな音楽ストアで購入した曲は特定のプレーヤでしか聴けないため、ひとつの会社の製品に縛られてしまうという主張もある。iPodについては、これは真実ではない(iPodの販売数×容量からすると、iTunesで販売された楽曲(20億曲)では3%しか埋まらないことから。平均的なiPodに入っているライブラリのうち97%はDRMのない楽曲になるという理屈)。よってiPodユーザはiTunesに縛られているわけではない。第2の道は、アップルがFairPlay DRMを競争相手にライセンスして、他社製のプレーヤでもiTunes Storeの曲が聴ける・他社の音楽ストアの曲でもiPodで聴ける互換性を実現すること。これは一見よい考えに思える。消費者にとっては選択肢が広がり、アップルにとっては多少のライセンス料金を得られるため。だがこれにも問題がある。ひとつはDRMの「秘密」を多くの企業に明かさねばならないため、流出の危険も増えること。また破られた場合のアップデートも非常に難しくなる。ことのことからアップルは、もしFairPlayを他社にライセンスした場合、レコード会社と結んだ契約を維持することが難しくなるという結論に達した。マイクロソフトの「オープン」なDRMから「クローズド」なDRMへの移行もおなじ判断に基づいているかもしれない。第三の選択肢は、DRMを完全に捨てること。すべてのオンライン音楽ストアがDRMフリーな曲を販売する世界を想像してみよう。どのプレーヤを使っていても、どの店から買った曲でも再生できる。どの音楽ストアもすべてのプレーヤ向けに曲を売ることができる。もちろん消費者にとっては最善の選択肢であり、アップルも即座に対応するだろう。もし四大音楽会社がDRMなし販売を許すなら、iTunes StoreはDRMフリー曲だけを販売する。レコード会社がアップルや他の企業にDRMプロテクトなしで販売を許す理由は? 一番シンプルな答えは、DRMはこれまで音楽の違法コピーを防ぐ役には立ってこなかったし、これからも決して役に立たないからだ。四大レコード会社はすべてのオンライン販売楽曲をDRMで保護するように要求する一方で、まったくプロテクトのないCDを毎年数十億枚も販売している。音楽CDにはどんなDRMも開発されてこなかったし、CDで販売された曲は簡単にインターネットで配布でき、どのプレーヤでも再生できる。2006年に各オンラインストアで販売されたDRM楽曲の総数は20億曲に満たない。一方で、なんのプロテクトもないDRMフリーなCDは200億曲以上がレコード会社自身によって販売されている。この傾向が変わる兆しはない。なぜなら、レコード会社の収益の大部分はDRMをサポートしないCDプレーヤで再生できるCDの販売から来ているからだ。では、音楽の90%以上をDRMフリーで販売しているのに、残りの数%をDRMで使いにくくして売る意味はどこにあるのだろう。どこにもないように思える。DRMシステムを開発、運営、更新するための技術的・資金的障壁のため、DRMつき音楽ストアへの参入者は限られている。この障壁がなくなれば、より新しい画期的な音楽ストアやプレーヤへ参入する企業が一気に増えるかもしれない。これはレコード会社にとってもプラスにしかならないだろう。欧州では、DRMシステムに対する懸念が多く挙がっている。現在の状況に不満な人々は、レコード会社に対してDRMフリーの曲を販売するように説得することに努力を傾けてはどうだろうか。四大レコード会社のうち2と1/2は欧州にある。最大のユニバーサルはフランスのビベンディの子会社、EMIはイギリス、BMGの半分はドイツのベルテルスマン。アップルやほかの企業にDRMフリー楽曲の販売を認めるようこれらの企業を説得すれば、真に互換性のある音楽市場が生まれるだろう。アップルは心から歓迎する。
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