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目線とは?/ アイフル

[ 186] 目線について
[引用サイト]  http://www.tec-r.com/rt/4.html

■ 目線について−コーナーをまわるときみんなどこをみてるの?コーナーの走り方−峠じゃないよ、ツーリングでだよ。☆なんかすごく怖くて後込みしています。効果的な?走り方を教えてね。
■ カーブを曲がるときの目線の送り方について質問します。カーブを曲がるときには目線の移動が大切だと聞きました。そこで、カーブでブレーキングをし始める時から、コーナーへ進入、から脱出、そして、立ち上がっていくまでの目線の送り方の基本を、教えていただきたいと思います。
人間が、バイクや車にその移動をたよることになって約100年程度であります。それより前の何千年、いや何万年前までは、他の動物と同じように自らの足にその移動の多くをたよっていました。移動の早さは時速10kmにも及ばなかったはずです。短距離走でも100mを9秒で走ることができるようになったのは最近のことではないでしょうか。しかし、現在は車の進歩は目覚ましいものがあり、バイクの世界では、市販車でも時速300kmのでる車が登場してきました。
ここで、機械の能力と人間の能力の比較してみると100mを9秒で走る人を多くの人は、その速さに驚異を持つことでしょう。人間の中でも限られた人しかできないことだからです。しかし、自らが運転しているバイクが時速40kmで走っている場合、その速度が速いと感じている人は少ないと思います。どちらかというと、むしろノロノロと感じているのではないかと思います。さて、100mを9秒で走った場合、これを時速に換算すると時速39.9kmとなり、ノロノロと感じる時速40kmにも及ばないのです。時速40kmの驚異を感じると共に、もともと、人間の持つ能力はその程度なんだということを知っておいていただきたいと思います。車やバイクの運転は人間の能力を超えたところで行なわれているということです。特にこのことは目の能力にも大きく関連があるのです。
コーナーリング中の目線については、前回のコーナーリング(その2)荷重編でもすこしふれましたが、目線の持っていき方でコーナーリングが変わってしまうほど重要なものです。(コーナーリングその2・荷重編をまだ見ていない人は見てくださいね)
また、運転そのものを考えても、運転の最初は、見ることから始まります。見てからその情報を判断し、その判断をもとに操作をしていくわけです。そんなことを考えると出来るだけ早く情報を取れたほうが良いのです。たとえば、コーナー中に駐車車両や穴があったとします。100m前で見ることが出来た人と30m前で発見した人では、その後の判断、操作も違ってくるはずです。したがって運転中の目線の持っていきかたの基本は良く言われることではありますが、「出来るだけ早く先に」です。
それではもう少し具体的にお話していきましょう。まず最初にコーナーというのを考えてみると、コーナーというものは大体先の見とおしがきかなくなっていることが多いのです。したがって、先を見ようにも千里眼(千里の先までも見ぬく才能:あったらいいですね!私も欲しい)でもないがぎりコーナー入口でコーナー出口までは見えないことが多いのです。
となって行きます。ですから目線はその都度その都度、移動が必要です。バイクの移動と共に見える範囲で先に先に、遠くに移動をしていかなければなりません。
しかし、これだけでも難しいことのように思うかもしれませんが、先だけ見れば良いかと言うとそうではありません。現実的に先ばかりでは、怖くて走れません。先ばかりを見ていると近くの路面などが気になります。また、実際に砂などが浮いていれば、もうそこに一点集中してしまいます。その途端身体も硬直してしまい思わぬ方向バイクが進んでしまうなんてことも考えられます。荷重移動の時にもお話しましたが目線の移動の仕方でも進行方向が変わってしまうこともあります。したがって目線の移動は
をひとつのコーナー内でも繰り返すことが必要です。現実的にこれだけのことをできるかというとた多少、理想論になるかもしれませんが運転中にこういった理想を追いながら、考えて運転するのもまた、楽しいことではないでしょうか?
とにかく人間の能力には先にお話した通り限りがあります。これだけのことを行うためにはスピードも抑えなければならないはずです。また、運転操作にも余裕が必要です。いきなりすべてのことを行おうとしても無理があるはずです。また、運転中は景色でも楽しむぐらい余裕を持ちましょう。備えあれば憂いなしといいますが、少しでも余裕ができるようHMSで練習してみませんか?

 

[ 187] 社長目線 (内田樹の研究室)
[引用サイト]  http://blog.tatsuru.com/2007/02/05_1025.php

例えば「私は革と生ゴムと少女切腹が好きです」みたいなカミングアウトをするとき、「国民のみなさん」というような呼びかけは選択されない。
今回の『下流志向』は『先生はえらい』と内容はほとんど同じと言って過言ではない(多少過言)ではあるけれど、標準している脳内部位が違う。
『先生はえらい』は「中高生」向きに書いているので、「え〜、なんで勉強しなくちゃいけないの。ガッコなんてつまんね〜よ」というような「だりー若者」的思考を司る脳内部位向けにピンポイントされている。
それにくらべてこの『下流志向』はもとがトップマネジメントカフェという経営者セミナーでの講演であるから、「社長相手」モードで理論展開がなされているのである。
つまり、「あ〜、学力崩壊とかニートっていうんですか?なんか、そういう困った現象があるようですな。もちろん、当社にはそんな不細工なものはおりませんが。ははは。ま、親御さんとしちゃ、そりゃご心配ですわな」という社長的思考を司る脳内部位(以下同文)。
そして、驚いたことに読者の中の「中高生的要素」に照準した本より、「社長的要素」に照準した本の方が売れ行きがよいのですね、これが。
だって、誰だって一度は中高生であったことがある(小学生はこれからね)が、社長になったことのある人間はそれほど多くはないからである。
その点、「社長目線」で教育崩壊とニートを論じた本というのは、モーツァルトを聴いてカフェラテなんか飲みながらでも「ほうほう、なるほど。日本はそういうことになってるわけね」と読める。
扱っている問題は深刻かつリアルなのだが、問題をとらえる文脈が、「その問題がもたらす社会的コストをどう分配するか」というたいへんビジネスマインデッドなものだからである。
「社長さん」たちというのは、他人(つまり、ビンボー人)が彼らに押しつける社会的コストの構造的な負担者という自己認識を持っている。
この「社会的コストを押しつけられる側からするところの、社会的コスト削減策の吟味」(というのを『下流志向』ではしているわけなんですよ)は、まるでファナティックでもないし、イデオロギッシュでもない。
「ホースラディッシュの美味しい食べ方」とか「換気扇の汚れのすばやい落とし方」について論じているのとクール度においてはあまり変わらない。
この「想定された読者」に擬制された立ち位置と扱われている問題の「距離感」がどうやら読者の琴線に触れているように思われる。
現に、アマゾンのトップセラーランキングに出ているのは、「年俸五億円の社長が書いた儲かる会社の凄い裏ワザ」「億万長者を産んだ男」「できる人の勉強法」「人を動かす」「仕事のスピードをいきなり3倍にする技術」といったタイトルの本ばかりである(あとはマンガとアイドル本)。
つまり、これは「年俸五億円目線に同調した気分」を売っている商品だということであり、それが売れるということはそのような商品についての需要が現に存在するということなのである。
「五億円社長本」がサラリーマン向けであるように、「社長目線」の本は「国民のみなさま」向けの本である。
というのは、「国民のみなさま」というのは、(「有権者のみなさま」や「納税者のみなさま」と同じく)、世事を高みから見下ろすことのできる特権的で幻想的な視座だからである。
謡本を見ながらひとり謡おうとするとうまくゆかないのであるが、横にいる地頭の吸う息吐く息にあわせ、その内臓の収縮や脈拍や筋肉の緊張に細胞レベルで同調しようとしていると、時折ぴたりと息が合う瞬間が訪れる。
この地謡全員が「ぴたりと息が合う」経験の身体的な高揚感というのは、なかなか言葉では説明しがたいものである。
内田樹さんの『下流志向』の問題は、微分的にみれば、等価交換というフィクションに、実体性を与えてしまっていることだろう。
先生はリスクヘッジについて繰り返し述べられていましたが、責任者について考えさせられました。リスクヘッジがなされている共同体では、責任者の存在はないことになるのでしょうか。
「責任者でてこい」「はい、責任者は私たち20人です」みたいなやり取りが出来ないこともなさそうです。教育現場では先生を守るために教育委員会がある、と現役の先生から聞いたことがあります。それは、責任の押し付け合いではない。個人を守る組織なんだ感じられました。
のか?読解途中ですが、少し、先生の洞察を強引につなげてみました。こんなに考える機会を与えてくださって、ありがたいことです。
大学を出て、大きな銀行に入って、一年足らずで精神的にへたばっちゃって、今、予備校で英語を教えています。25歳、男です。
「若者は、無時間性の中、消費主体として世界に対峙している」というエッセンス、「参ったね…」と思いました。少なくとも個人的には、その通りです。
僕自身、世界を、時間的な文脈でみる意識が明らかに欠如しているように感じます。そして、その場限りの損得勘定の計算をすることの、何て多いこと!!
そう、そう、そうなのだ。あの怪しげな、どこまで実効性があるのかわからない精神性の高い武道のように、相手の力を利用してふわりと受けるような、そんなかろやかな題名に惹かれて著書を手に取る人が結構多いのじゃないだろうか。
ふふふ。これ、安倍政権に応用すれば『国民は判ってくれない』てことになりますかねえ。もちろん、どこやらの国のブンゲイ映画のもじりなのでしょうが、それをかろやかに使える発想が見事です。
これからみんなで考えてゆこうじゃないですか、という60年代の青春ドラマみたいな総括はお気に召さないかもしれませんが、「自分の問題は自分で決着をつけるべきだ」という発想そのものが生きるリスクを高めているというのが私の考えなので、「みんなでいっしょに悩む」というは「あり」だと思います。そして、その「みんなで悩む」ということそれ自体が消費主体的ありかたからの離脱の道ではないかと私は思います。
この現実というのは「時間が早かれ遅かれ存在する」という現実、と簡単に理解しました。しかし、消費主体さまの現実というのは消費速度がピークを迎えた経済社会のことを指しているのでは、と感じてしまいました。
BC8000年に人間が農業を始めたのは、農耕手段を発見したからではありません。それ以前は、狩猟採集民族として世界人口は400万人前後で推移していたようです。
その社会では、何かを育てる、といった集約的であるが依存的でリスクが高く、手間のかかる(文化はそうやっても発展した)ために作物栽培は嫌っていました。広範囲に移動して採取・収奪すればいいからです。
農耕を始めた人間は、実はとても弱い存在で、強い人間との縄張り争いに負け、農業以外に生きる道がなかったと考えられます。
現代では、狩猟採集民族が収奪範囲をかつてないほど広げているように思っちゃいます。その武器はワザではなくお金です。えさを散らかせれば、働きアリはいます。
お蔭様で、社会交易のなかで利益を分配しています。労働の運動の中に取り込まれた人間が増えたので、交換総数も増えました。利益を得る人の上限も増えました。
しかし、それをうらやむ人が増え、誰もが搾取する側にまわりたくなる。知っちゃうと働いてなんていられないっすよね。でも、本当にほしい(交換したい)のはお金でしょうか。
消費主体でも労働主体でもない好きなものを交換する交換主体、という考えもあっていいのではないか。いやでも、子どもの等価交換が厳密にされるだけかもしれない。
交換は本能かもしれないが、好みはいろいろあるんですね。そう考えると、消費って労働と交換の末、なんだな。では、一番初めには何が来るのかな。
内田先生(レビスト)の言う、負債を追って生まれてくる考え方は、僕に光を与えてくれました。理不尽だけど理不尽じゃない、義務なんだけど義務じゃない含みがあるように思えます。だって権威ある人が‘この世’にいないんだから。
消費者主体さま。どうやら悩みとはお化けと共に暮らすことのように思います。共に悩みましょう。ここに言語化するのに2時間かかったよ。テストガァ・・
そんな原罪の薄れは、つながりの薄れ、例えば祖先の墓から遠ざかってしまったこととも関係があるような気がします。
ただ、個々人が無意識的にでも、原罪に耐え切れなくなったことが、今の閉塞感を作っているのではないでしょうか。
とすると、「折り合い」は「原罪」となされ、そこを超時間的にイーブンにしていくことが、つまり死ぬまで、様々な答えを捧げ続けることが、先人へ、生きる自分たちへ責務を果たしたことになるのではないでしょうか。
そのために、交換の場に厚みが必然的に広がることになる。そう解しました。今の自分は、とても罪深い原罪を背負っています。でも、こんな場を育てることが目標になりました。それが、なんとか凌ぐ希望になりそうです。
今の時代を生きるあなたも私もみんな一緒。誰か言ってください。でたらめでいいんです。「分けるんだけど、分けちゃだめ」そう聞かせてください。

 

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