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批判とは?/ アイフル

[ 214] 「匿名」による批判の禁止ルールについて
[引用サイト]  http://www.math.tohoku.ac.jp/~kuroki/keijiban/Anonymous.html

「匿名」による批判の禁止ルールはあちこちからリンクされ、かなりの反響があるようなので、そのルールに関して色々考えてみたことを書き残しておくことにしました。
「匿名」であるか否かの判定は実名や電子メール・アドレスを公開しているか否かで行なわれるのではなく、その人が自分自身の考え方や趣味・嗜好に関してどれだけの情報を公開しているか否かで行なわれる。 (この意味での「匿名」は通常の意味の匿名とは全然違う意味であることに注意! 以下に書かれていることを誤解しないためには、そのことを決して忘れないことが必要です。なお、このような「匿名」の定義はネット上で実用的に使用可能な「匿名」の概念としてかなり有効だと考えられます。例えば、一貫した人格のもとで自分自身の考え方をインターネット上で発表している人は実名を公開してなくても「匿名」でないということになる。)
論争に参加する人は、馬鹿なことを言ってしまったときに恥をかけるだけ十分に詳しく自己紹介を行なわなければいけない。
「匿名」による批判は禁止するが、「匿名」による穏当な発言は禁止しないし、「匿名」による有益な情報提供は当然歓迎する。
コミュニケーションの質を高めるにはどうすれば良いかに関する様々な経験と観察、自分の実名や所属を公開しないことの利点をできるだけ保ったままどうしようもない匿名者を排除するにはどのようなルールを設定すれば良いか、の二つがこのルールを思い付いた動機でした。
インターネット上で実名や所属を公開することに恐怖を覚える人は多いと思います。そのような当然の感覚は否定したくない。
しかし、匿名の安全圈からどうしようもない行為を繰り返す人たちにまで平等に発言権を与える場を設定しても、私が欲しているような質の高いコミュニケーションは不可能であろう。
おそらく、私と同様に質の高いコミュニケーションを欲している人は、実名や所属を公開していなくても自分自身の考え方や趣味・嗜好を十分にインターネット上で表現しているに違いない、現在はそうでなくても将来はそうしたいと思っているに違いない、と私は考えました。
そして、そのような人たちは一貫した人格のもとで十分に自分自身を表現しているのだから、ネット上では「匿名」とみなす必要はない、と考えたのです。
それでは、そのような条件に当てはまらない人たちを全て「匿名」とみなして排除して構わないか? もちろんそうではありません。インターネットを利用し始めたばかりで、自分自身をよく表現してない人によるちょっとした情報提供までも排除するのは行き過ぎでしょう。
それではどこに線を引くことにするか? 私自身は「匿名」の安全圈からの批判だけを排除することにしたのです。
このようなルールの運営の仕方を考える上で重要なことは、当たりまえのことですが、場所ごとにルールが異なっていても構わないということです。例えば、「匿名」で自由に発言できる場所があっても構わないし、「匿名」による発言が全く許されない場所があっても構わないし、そのあいだを取って「匿名」による批判だけが許されない場所があっても構わないのです。「匿名」の定義も様々であって構わないと思います。
ルールの異なる様々な場所が並存していることには利用者の選択肢を増やすというメリットがあります。そのような状況のもとでは、ある場所ではルールの制限のためにできなかったり、ノイズの中に埋もれてしまうかもしれないという理由でそうする気が起きなくても、他の場所ではそれを行なうことが可能になります。
例えば、「匿名」による批判の禁止ルールが採用してある場所では、たとえ内容的にまともな批判であってもそこでは発言できなくなってしまいます。これは「匿名」による批判の禁止ルールの欠点の一つです。まあ、実際には、内容的にまともな批判であるはずなのにわざわざ「匿名」の立場からするというのはおかしなことなので、問題になることはおそろしくまれでしょう。しかし、大した欠点ではないとしても、それによって実際に不都合が生じる可能性は確かにあります。
しかし、そのような場合には、「匿名」による批判の禁止ルールはあくまでもローカル・ルールに過ぎないのだから、他の場所に批判を発表してもらえば良いのです。その代わりに、その批判を発表した別の場所に関する情報 (例えば URL) を書き込むことだけは許すことにして、ルールの欠点をカバーしておくのが良いでしょう。それによって、続きの論争を他の場所で行なってもらうようにするのです。
これによって、「匿名」の立場からまともな批判を発表したい人たちの権利と「匿名」による批判を相手にしたくない人たちの権利の両方が守られることになります。
ここで、「匿名」による発言を平等に扱わない (もしくは扱わなくても良い) 理由を説明しておきましょう。「内容至上主義」の欺瞞に関する節でも議論しますが、「匿名」の発言を平等に扱いたくないという意見は感情的で不合理な考え方に過ぎないという主張は誤りです。「匿名」による発言を平等に扱わないことには確かにメリットがあります。メリットがデメリットを上回ると考えられる場合には是非ともそうするべきでしょう。
まず、「匿名」を相手にしないという方針にはコミュニケーションのコストを減らすという面において大きなメリットがあります。あらゆる場所において「匿名」の発言を他と平等に扱うべきだという考え方の中にはコミュニケーションに関わる巨大なコストを不当に低く見積るという誤りが隠されています。だから、「匿名」の発言をも平等に扱うべきだというルールは、様々な種類の「匿名」排除ルールと同様に、あらゆる場所に適用して構わないルールではありません。
また、「匿名」による発言とそうでない発言を平等に扱うことは、「匿名」でない発言者にとって不平等な状況を作り出します。なぜなら、「匿名」の発言者は失敗しても失うものがほとんどないので、普段だったらできないような暴言を吐くことが自由にできるからです。「匿名」の安全圈に隠れていれば、そのような暴言によって受ける被害は大したことがありません。しかし、自分自身の考え方や趣味・嗜好を表現するためにかなりのコストをかけている人 (すなわち「匿名」でない人) はそうではありません。しかも、受けた害と同等の害を「匿名」の暴言者に与えることによって反撃することもできない。このような理由によって、「匿名」による批判をも平等に扱うことを義務付けられた場所における論争に「匿名」でない人は参加し難くなります。
だから、特に「匿名」でない人たちが論争に参加し易い状況を作り出したいのであれば「匿名」による批判を禁止した方が良いのです。もちろん、論争の場から「匿名」でない人たちを排除もしくは遠ざけても構わないのであれば「匿名」による批判をも平等に扱うことを推奨しても構わないでしょう。
少なくとも私が知る限りにおいて、拝聴するに値する発言をする人たちが「匿名」であることは滅多にありません。それに対して、もちろん例外はあるにせよ、「匿名」の発言者は無責任な態度でくだらないことを平気で言うことが極めて多いのです。だから、特に「匿名」でない人たちが議論に参加し易くなるようにルールを設定することには議論の質の面で大きなメリットがあります。
「議論は、誰が発言したかではなく、発言の内容だけに基いて行なわれるべきである」と主張する人をよく見掛けます。以下、この主張を仮に「内容至上主義」と呼ぶことにしましょう。
確かに「内容至上主義」は基本的には正しい考え方かもしれません。しかし、「内容至上主義」は常に正しいわけではないし、「内容至上主義」を前提としても「匿名」による発言を平等に扱うべきだということにはなりません。
率直に言わせてもらえば、「内容至上主義」を匿名の正当性とからめて強調する人たちは、コミュニケーションの難しさを不当に低く評価しており、有益な議論をどうやったら実現できるかに関して何もわかってないのだ。特にそのような人は「インターネットの良いところは匿名で自由に発言できることだ」という類のことを安易に言う人たちの中に多い。
まず、利害関係がからむ議論においては、誰がその発言をしたかは非常に重要な情報になります。だから、そのような場合には、「内容至上主義」は誤りだし、現実に受け入れられることもないでしょう。
そのとき大事なことは、発言者が誰なのかを気にし続けることと、提出された証拠と論拠に基いて発言内容の真偽をチェックし続けることは同時に可能であり、互いに両立することです。まともな議論を行ないたければ発言者が誰であるかと独立に提出された証拠と論拠をチェックしようとするのは当然です。しかし、そうであっても、発言者が誰なのかというそれ自体重要な情報を無視して構わないということにはなりません。
次に、たとえ「内容至上主義」を大前提にしたとしても「匿名」による発言を平等に扱うべきだということにはならない理由を説明しましょう。そのように結論できると信じている人たちはおそらく次のように考えているのでしょう:
しかし、大前提として「内容至上主義」を仮定したとしても、小前提が誤りなので、この推論は成り立ちません。
発言内容の字面だけを見るなら、確かに発言者が「匿名」であるか否かは関係ないでしょう。しかし、議論で必要なのは発言内容の解釈です。発言内容の解釈の仕方やコストには発言者が「匿名」であるか否かが大いに関わってきます。
まず、あらゆる事柄について詳細に説明し、その全て読んで理解してもらうことは現実的には不可能なので、発言の内容には常に曖昧さがつきまといます。細かいニュアンスの理解が重要な場合だってあるでしょう。そのようなときに、発言者と発言内容に関して他に参照できる大量の情報が全くないとすれば、発言の曖昧な点やニュアンスを正しく解釈することは難しくなります。
もちろん、発言者は、他の情報に頼らなくても、内容が理解できるようにわかり易く文章を書くべきでしょう。しかし、「匿名」のままそうした場合には、努力のすえに結果的に曖昧になってしまった部分 (そのような部分は大抵の場合残る) の解釈に関して、「匿名」でなければ不必要であったかもしれない負担を読者に課すことになります。これは不親切です。
「匿名」をどう扱うかとは無関係に、議論におけるコミュニケーションのコストを低く見積るのは誤りです。自分が何を言いたいのかを相手に伝え、相手が何を言いたいかを理解するのは、おそろしく大変なことなのです。 (それが簡単だと思っている人は深い議論をしようと思ったことがないに違いない。)
お互いに相手がどのような知識を持っていてどのような性格であるかをよく知っているとコミュニケーションは非常にスムーズに進みます。たとえ数学のように結果的に純粋に論理的な理解が要求されるような分野であっても (いや実際にはそのような分野であるからこそ)、コミュニケーションをどうやってスムーズに行なうかが極めて重要な問題になります。私の経験では本当に有益で深い議論ができるためには (直接会ったことがなくても) 何らかの形でお互いに相手をよく知っていることが必要です。
「匿名」であるか否かは発言の内容には全く関係ないという考え方は、コミュニケーションのコストを不当に低く見積ることによって、有益で深い議論への道を閉ざすことに繋がっているのです。 (もちろん、有益で深い議論をすることが目的でなければこの欠点を無視して構わないかもしれませんが。)
注意:以上において「匿名」が通常とは異なる意味で使われていることに注意して下さい。実名を公開していても「匿名」であることがありえるし、実名を全く公開してなくても一貫した人格のもとで自分自身の考え方や趣味・嗜好を明らかにしている場合は「匿名」ではなくなります。
さらなる注意:すぐ上の注意を読んで「なんだ匿名でも構わないのか」と思ってしまった方は浅はかな方です。考え方のポイントは議論への参加者に関する情報が隠されていることによって生じる損害を無視しないことです。議論への参加者が自分自身に関する情報を隠すことが許されるのは、そうしても他人に与える損害が十分小さい場合とそうしないと自分自身が重大な損害を受けてしまう例外的な場合に限ります。特に公共性の高い重要な事柄に関する議論はそこにどのような立場の人物が参加しているかを明らかにした上で行なわれなければいけません。自分自身がどこの何者であるかを隠したまま公共性の高い重要な事柄に関する議論に参加できるなどど考えない方が良いでしょう 。 (もちろん例外的な場合を除く。)
例1. 例えば、ある掲示板に初登場時に非常に詳しく自己紹介した人がいてハンドルを使用して発言していたとします。掲示板の記事は古いものが順番に消えたり、埋もれてアクセスし難くなったりします。そのようなとき、後からその掲示板にやって来た人はそのハンドルの主がどのような人物なのかを知るのが難しくなる場合があります。だから、その掲示板に古くからいる人にとって「匿名」でない人であっても、新たにやって来た人に「匿名」に見えてしまう場合があります。
例2. 他の掲示板で仲良くなった方が自分の掲示板にやって来たとします。そのとき、自分自身にとってその方は「匿名」ではなく、非常によく知っている方なのですが、他の方々にとってはそうでないかもしれません。
このように、ある人が「匿名」であるか否かの判定はその方に関する情報をどれだけ持っているかに大きく依存するので、ある人にとって「匿名」でなくても、別の人には「匿名」に見えてしまう可能性がいつでも生じます。
そして、問題なのはそれによって生じる不平等がコミュニケーションを阻害する要因になってしまう可能性があることです。「匿名」による批判の禁止ルールを採用している場合にはこの問題は無視できないと思う。
一つの解決策は、個人情報や自己紹介に関する情報の不平等ができるだけ小さくなるように、そのような情報を整理しアクセスし易い状態に保っておくことです。
しかし、そのためにかかるコストは無視できません。毎日のように次々に登場する新人に関する情報を手動で整理するにはおそろしく手間がかかります。
だから、自動的に整理されるようにしておくのが良いと思うのですが、それがうまく行っている例を私は知りません。
追記 2001.7.28:以上の問題について普段の生活ではどうしているかを考えてみました。 (一般にネット上は特別だという発想では良いアイデアは浮かばないことが多いと思う。) 普段の生活で知らない方を相手にするときには必要に応じてその場でもしくは別の機会にその方が誰なのかを尋ねてみるのが普通です。そのやり方をそのまま使うことが上の問題良い解決方法である可能性があります。ただし、日常生活においても相手の素性を尋ねるタイミングを取るのはなかなか難しいものです。だから、「自己紹介のお願いの自由」を目立つところで強調しておくことによって、「申し訳ありませんが、自己紹介をお願いできますか?」と言い易くする工夫が必要だと思う。しばらくしたら実際にそうすることにしようと思ってますが、この文書を読んだ方は実際にそのように行動して欲しいと思います。

 

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