依存とは?/ アイフル
[ 37] 共依存とは
[引用サイト] http://trauma.or.tv/1kouisho/6.html
共依存の人は、自分自身を大切にしたり自分自身の問題に向き合うよりも、身近な他人(配偶者、親族、恋人、友人)の問題ばかりに気を向けてその問題の後始末に夢中になります。身近な人の取らなかった責任を一生懸命代わりにとり、結果、現在の困った状況を身近な他人本人が決意して解決する必要を与えず、困った状況をそのまま続けるはめになる……あるいはますます困った状況に陥っていく人達のことです。 身近な他人は大きな問題 アルコール依存症やギャンブル依存症、非行や暴力、買い物中毒、仕事中毒、絶えない人間関係のトラブルなどを抱えているため、共依存症の人の「共依存」という問題がクローズ・アップされることは滅多にありません。 けれども、そういった見た目に派手な依存症や問題を抱えている人達の側にかならずといっていいほどいると言われています。共依存の人達が問題の後始末を一生懸命してくれるので、「困った人達本人」は「困った状況」が「なんだかんだ言ってもなんとかなる」と無意識で感じています。このため問題を解決せずにほったらかしにし、悪化させます。この現象を指して共依存者のことを「依存症の支え手(イネイブラー)」と呼ぶこともあります。 ここで誤解しないでいただきたいのは、身近な誰かが何かの依存症にはまっているのは、その本人に問題があるからです。問題のない人は、依存症にはまりません。共依存症者と他の依存症者が一緒にいると、2人とも依存症がエスカレートしやすくなりますが、共依存症者が側にいなくても、他の依存症者は依存症にハマっています。「私が共依存症だから、相手がパチンコ依存症なんじゃないか」というのはハッキリと間違いです。 共依存症者が側にいなければ、他の依存症者のエスカレートはゆるやかになるケースが多いと言われています。それと同じように、他の依存症者が側にいなければ、共依存症者のエスカレートもゆるやかになります。 立場は同等であり、とちらにも同じように問題があります。どちらが悪いという話しではないことをご理解下さい。 日本女性はとくに「我慢して尽くすこと」が美徳だとされているので、共依存者が多いといわれています。ある程度までは「人間関係の潤滑油」ですが、共依存症者にとってその人生は他人の後始末、後始末、後始末……他人の責任の代行ばかりで自分のための人生を生きることができません。自分自身の人生もみじめですし、周囲もみじめなままになってしまいます。 自己と他者の境界設定ができずに、他者に侵入したり、他者の侵入を許したりするという自己保護の障害 自分が他人にとって必要になっており、ありがたがられる、などの報酬を無意識に期待している。目先の愛情にとらわれて他人の世話をするが、大きな目で見ると他人や自分を破滅に導いていることに気がつかない(例・不良息子や飲んだくれ亭主に必死に働いてお金をあげたり、本人達の不始末を代わりに謝る) 他人の行動の責任はとるが、自分の行動がどのような結果を招いているかは考えない。他人の文句を言ったり、他人がどうするべきかを考えてそうなるよう努力はするが、自分がどうすれば本当は良いかを考えない。 問題のある人や場所に惹かれやすく、不安定な生活を送りやすい。いざ安定した自分中心の生活と不安定な他人中心の生活の選択をせまられると、「私がいないとあの人は……」「金銭的に無理」などといろいろ理由を並べて熱中できる問題がたくさんたる生活を選ぶ。 他人の目や意見を気にして、あるいは自分の本当の気持ちをごまかすために、真実を隠して表面は何でもないように振舞う。悪い面をできるだけ小さく考えようとしてそう表現する。 コミュニケーションの技術に欠け、「自分の」必要なもの、欲しいものをはっきり要求することができない。「いいえ、できません」とはっきり断わることができない。他人の問題や他人の愚痴ばかり話し、「私は」こう感じてこう考えるというように自分自身を主にできない。 他人の問題にお節介にも入り込んでしまったり、他人の落ち込むのを見ると、自分も滅入ってしまったり、または人の気分を変えようと必死になったりする。自分と他人は考え方も感じ方も感情も違う個別の人間であるという自覚が、実はない。 繊細な感情がマヒしてしまっているので、感情の適切な表現ができずに、何だか変だなと思うときに胸がドキドキしても、それに注目せず無視してしまい、行動を変えることなく同じ間違いを何度も繰り返したりする。 自分よりも他人のために行動しているのに報われないとなると、怒りや恨みがたまってくるのは当たり前のことだが、自分自身でその怒りを否定するために適切な怒りの表現ができない。急に爆発させたり、八つ当たりしたり、あるいは怒りを「恐怖」にすりかえて怒りを感じないようにする。 今すぐ良い結果が出ないと気がすまず、せかせか動き回ったり余計な心配に気をもむ。他人の行動を長い目で見守ることができず、自分が今すぐコントロールしようとする。しなければならないことで頭がいっぱいになり、様子をみるということができない。 相手に問題があるのは、自分が何か悪い事をしたかのように思い込み、自分がもう少し努力すれば、また自分の欠点を直せば相手が良くなるだろう、変わるだろうと必死になる。疲れて相手から離れようと考えると「私がいなければあの人は」「子どもがかわいそうだ」とひどい罪の意識に囚われる。 黒か白かがはっきりしすぎたり、自分が正しくて他人がまったく間違っているとか、または反対に全部自分のせいだと思い込んでしまう。いったん何かをやりだすと限度を知らず、または物事を1つも完成させることができずに、途中ですべて投げ出してしまう。 相手が問題を起こすと憤慨し嘆くが、少し調子がいいと苦しかったことを忘れて相手を「可哀想な人だから」と弁護したり本当はとても良い人だと思ってすぐ許してしまう。離れたり調子が良いときは楽しいことばかり思いだし、苦い経験を忘れてしまうのでふたたび同じ過ちを繰り返す。 相手を救おうとあがき、上手くいかないと相手を責める。それもうまくいかないと、相手のせいで自分はこんなにみじめだと被害者意識にとりつかれる。被害者の役割を演じ、相手のせいにしていれば自分の選択と行動の結果の責任を取らなくていいという錯覚に陥る。 自分に自信がないので他人に幸せにしてもらおうと思っていたり、自分の人生の目的や自分はいったい誰なのかがはっきりせず、自分を大切にできない。すべての共依存の問題は、ここから始まっていると思われる。 |
[ 38] 共依存
[引用サイト] http://www.geocities.jp/pachimaya/kyouizon.html
共依存者とは、自己自身に対する過小評価のために、他者に認められることによってしか満足を得られず、そのために他者の好意を得ようとして自己犠牲的な献身を強迫的に行なう傾向のある人のことであり、またその献身は結局のところ、他者の好意を(ひいては他者自身を)コントロールしようという動機に結び付いているために、結果としてその行動が自己中心的、策略的なものになり、しだいにその他者との関係性から離脱できなくなるのである。(加藤篤志) つまり、自分の内面が空虚で他者の評価を必要とするだけでなく、他者の評価を獲得するために他者を道具として利用する人たちのことをいう。一般的傾向としては、他人の世話を焼きたがる割には、他人に対して不誠実で策謀的な点があげられる。 従来は、アルコール依存を個人の精神的弱さの問題と考えていたが、この発見によって依存者の人間関係に焦点が移る。依存者の回復には、その依存に手を貸している人の治療も必要であるという認識が得られたのである。 当初、アルコール依存の家族にたいして、依存を手助けしないためのアドバイスをすれば済むと考えられていた。しかし実際は、その家族の依存的態度の変更がはるかに困難で、それ自体を一つの病的傾向として扱われるに至った。 ついには、現代社会に広くみられる一般的病理として「共依存」という言葉が使われるようになった。自分の存在意義を確定させるために、他者からの承認を過剰に求める現象は、現代社会のあらゆるところで見いだすことができるのである。 依存というのは、依存する対象の問題ではなく、依存してしまう人格面の問題である。つまり、「パチンコにはまったかどうか」の問題ではなく、パチンコという行為にのめり込んでしまう人格の問題といえる。 人格を考えるときには、個人で完結する問題ではなく、その依存者の人格形成に関わった両親、そしてその依存者と結婚するほどまでの密接な関係を築いた夫婦関係が問題となる。(なお、結婚した時点で依存が表面化していたかどうかは、まったく関係がない。) 上で述べたように、依存者はその家族から離れることによって回復するケースが多い。共依存状態の中にあっては回復は困難なので、そこから物理的に離れてしまうことが有効なのである。 親子間においては、社会通念として子供は親離れすることが要請されている。そのため、成人が依存症になった場合には、親子関係の共依存があったとしても、すでに物理的に離れているケースが多い。 しかし、夫婦間においては、物理的・経済的に密接な関係にあるだけでなく、心理的にも適切な相互依存関係にある。夫婦である以上、お互い適切に依存しあう必要があるにもかかわらず、その依存の仕方が共依存になってしまった場合、その後の夫婦関係は相当の困難を伴うと考えられる。(カウンセラーなどの第三者の介入と援助を求めることを強く推奨したい。その際、妻と夫の両方が、(別々ではあっても)カウンセリングをうける必要があるのは言うまでもない。) その点から考えると、仮に夫がパチンコ依存のときに、共依存者の妻が取りうる一つの典型的なパターンが浮かび上がる。つまり、今までのコントロールに加えて、今度は「パチンコ依存だったという事実」によって、夫の行動や感情を操ろうとするのである。 共依存者は、共依存以外の人間関係が構築できないのが常である。夫をコントロールするという想定がどれほど異常な関係かを理解できない。おそらく、共依存者の両親も共依存傾向にあり、それを無意識に学んでしまったと考えられる。また、そういう人格傾向があるからこそ、同じく依存的な人間である現在の夫と結婚することになったはずである。 そのように誤解される理由は、責任の所在をどこかに求めようとする点にあると考えられる。たとえば、夫がパチンコ依存になったのは妻が原因だ、などという誤解がある。実際は、夫と妻がどちらも共依存的傾向を持ち、だからこそお互い密接な人間関係を築き、現在は夫の方が目に付きやすい嗜癖がある、と考えるべきなのである。 人間関係は人格の基底である。嗜癖という行為はその基底からわき出てきた泡と見なすべきだ。依存者と密接な人間関係にあるものすべては、等しく依存的な傾向を有していると考える方が自然なのである。 なお、夫がパチンコ依存のときに、妻が「自分は共依存者ではない」と主張することは、「自分と夫はもともと精神的な交流がない」と断言するのに等しい。(ただし、ここでは共依存の定義をやや広く捉えている)。また、もし妻が共依存であるにも関わらずそれを自覚しないならば、夫の依存回復は困難になる。 この中で、身代わり弁済という手段は、自力返済のように高金利を支払うこともなく、自己破産のように社会的信用を傷つけることもないので、一見すると合理的でベストな選択のようにみえる。しかし、多くの人が経験的に(あるいは直感的に)知っているように、もっとも困難な選択なのである。 まず第一に、パチンコ依存者は依存的な人格傾向を持つからこそ現状に至ったわけで、その後始末を依存的手段で済ませることは、その人の人格変容を要求しないことになる。安易な解決によって、その人の問題が保存され、依存回復のチャンスを失う。 さらに、誰かに借金を支払ってもらった場合、その人との間に共依存関係ができやすい。金を払ってもらった依存者側は負い目を感じることになるし、弁済した側は無意識のうちに相手の支配権を持つ思いこむ。両者の間に対等な関係が形成できなくなるのである。 妻が夫の借金を弁済した場合、夫は負い目を感じて、その息苦しさから逃れるために家に寄りつかなくなることがある。また、妻は弁済したことによって夫を何かと支配しないと気が済まなくなり、自分の共依存傾向を強める。 親が子供の借金を弁済した場合、子供は親に負い目を感じて、根本的な親への依存心からいつまでも脱皮できなくなる。親も何かにつけて子供に干渉するようになり、共依存傾向を強める。 結局、「身代わり弁済」というのは、共依存の表現なのである。貸した側が共依存者として、パチンコ依存者の依存を後押ししていることになる。安易に身代わりを引き受けてしまった人は、その行為によって相手をさらに苦しめることを十二分に理解しよう。負い目から逃れるために、パチンコ依存者をさらなる自己破壊に仕向けてしまうことだってあるのだ。(つまり、共依存者とは、親切や自己犠牲を装いながら、他者を支配し苦しめる結果をもたらす傾向がある。) 依存回復という視点からみれば、長い自力返済の期間を経たり、あるいは任意整理や自己破産をした方が、本人にとっていい結果をもたらすことが多いのである。金銭的な損得の観点だけで、安易な身代わり弁済をすることは控えた方がいい。 なお、身代わり弁済が絶対にいけないというわけではない。上記のことを両者が十二分に理解し、できれば第三者の助けを借りながら、依存の根本的な問題に努力していけば、遠回りではあるものの回復は可能だろう。 |
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