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[ 177] オタクにとって「足りないのは覚悟」か? - たまごまごごはん
[引用サイト]  http://d.hatena.ne.jp/makaronisan/20070816/1187109472

「これつまらないなあ」「これエロいし見る人いるのかなあ」と口で言って、一部の作品を猛烈に避けていた頃がありました。隠れオタ時代です。
いや、合う合わないはあるのでそれは選ぶべきなんだけれども、入り口を自分でせばめたり、それを好きな人に「自分は嫌いだ」という嫌がらせっぷりを発揮したりと、もうとんでもなく痛々しいことをしたわけですよ。なんというもったいない偏見。
とはいえ、「自分はオタクじゃないんだ」とか言い張っていた時期って、経験あるひともいるんじゃないかと思います。それがプライド?みたいにしてあるがために「エロゲはやらない」とか「これは作画がダメ」とか「エロマンガなんて買わない」とか、勝手にライン引きをしていたものです。
それこそゲームなんかは一生縁のない人は多いでしょうし、アニメやマンガも全く見ないなんて人もいっぱいいます。
まあ、コーサカは割りとリアリティのない特殊なタイプのオタクなのでなおさらそう感じるのですが、オタクになるのってそんな「覚悟」がいるものなんでしょうか。
自分の経験上、オタクになるのは「素に戻る」ことでした。マンガやアニメが好きだったわけです。それを認めたくなかったり、「そんなのは幼稚な趣味だ」みたいな意味のない優越感に浸ろうと躍起だったのでしょう。うわー、中二病だ。
ある程度の「思い切り」はありました。特にエロマンガと同人誌は、最初買うのが非常に山でした。ちなみに一番最初に買った同人誌はタカハシマコ先生のエヴァのアスカ本でした。今でも大切にしてます。はじめて買ったエロマンガは多分鬼魔あづさ先生。
結局、別にオタクに限らず、スポーツだろうが運転だろうが楽器だろうがなんだろうが、最初の一線というのはあるわけです。
それを超えたらはまる、というのはよくある話。多分もともとやりたかったのだと思います。それがオープンに出来なかっただけ。
ただ、「オタク趣味=後ろめたい」という前提をもってしまうと話は別。それでもいいじゃないか、と思えたなら別に気にならないでしょうし、それはちょっと抵抗が、となるとただ勇気で飛び出すのとは違って「覚悟」が必要な場合もあるかもしれません。
「オタク」とか「萌え」っていう言葉自体には意味はないと思います。それをどう受け止めてどのような意味をつけるが、が個々にとって一番大事なところだというか。
だから、普通にマンガが好きな人は自分のことを「オタク」だと思わなくても、まわりから見たらそう思う、なんてこともあります。また自称オタクでアイデンティティを保つ人もいます。どっちも間違いじゃないです。
「オタク」という言葉と、「ミュージシャン」や「アーティスト」や「スポーツマン」も同列に並べてみます。全部趣味であれば、同じだ、と考えられるようになったとき、自分は途端に気楽になりました。人はどう思うかわからないけど、趣味は趣味です。
ならいっそ「自分はオタクだからー」と言って、好きなことを好きなだけやったほうがお得。ついでに今まで避けていたのも見ておこうかな、オタクのたしなみ!とか思えるようになると、どんどんハードルが下がっていきます。
便利なんですよ、オタクって言葉。「ミュージシャンだから練習する」みたいなパワーがこもっている気がします。
もちろん、自分も作品の好き嫌いや得手不得手はいっぱいあります。ただ、それを「嫌いだ」というとどんどん本当に嫌いになる自分がいやになってきました。
これもブログはじめて分かったことだなあと思うのですが、自分がどんなに嫌いでもそれを好きな人は世の中に必ずいるんですよ。
それに対して「つまらないことを」というのは本当に傷つけることになるし、その人が見出している楽しさを見ていない自分は本当に損をしていると思うし。
誰かが心を動かされているものがそこにあるならば、それは見方を変えれば「楽しめる」場合が実はあるんじゃないかと考えるようになりました。もちろんそれでも合わないのは、仕方ない。
これ手前の二人がドオタクで、後ろの二人がノーマル、っていう設定だと思ってください。あ、かがみは最近リアルなちょいオタな気がしますが。
「2人とも生き生きしてんなァ」というセリフが、とてもイイ。これが嘲笑でもなく、突っ込みでもなく、ただその二人への感想なのがいいんですよね。
「何かを楽しもうと真剣になっているオタク」は、とても輝いている気がします。別にオタク人種至上主義*1っていうわけじゃないけれども、否定や拒絶するよりは、色々なものをみて楽しめる方が断然いいと思うのです。
みうらじゅん氏が「作品は楽しいところを探して楽しもうとするときに楽しくなる」ということを言っていて非常に胸に来た記憶があります。つまり、楽しいところを探す過程が楽しい、という考え方。そしたらB級映画もクソゲーと呼ばれる作品も一気に楽しくなります。
そういう意味では、ニコニコはいいものも悪いものも一気に楽しめるようにできる奇才ぞろいなので、新しい視点をガンガン与えてくれます。これはいい。嫌いだったあれが好きになる、なんてことも多々あります。
せっかくだから、好きなものは好き、楽しいものは楽しい、と言いながらオタク文化をかじっていきたいなあと思えるようになりました。
現実逃避?ばっちこい。行って帰ってくればいい。温泉日帰り旅行だ。旅行先では愚痴はなし、楽しむのがルール。
「げんしけん」で書かれていた「覚悟」。本来の意味は違うかもしれないけれど、こう捕らえてもいいんじゃないかと思うのです。
今回、自分の漠然とした視点を書いておきたいなあという気持ちになったきっかけの記事二つ。お二方とも「純粋に楽しもう」という前向きな視点が感じられて、刺激を受けます。好きなものは好き、もっと好きになりたい。みんながそうであれ、という意味ではなく自分の目標みたいなものかも。
*1:某ネト○ンにうちのサイトはオタク至上主義にカテゴリわけされていて、笑いました。やっぱそうなのかしら。
ヲタク趣味って女と付き合ってパンパンSEXしてると驚くほど無くなっていきますよ。自分にとってのヲタク趣味って言い方悪いけど「代替品」だったのかなぁ、なんて最近思うのデス。
↑みたいな考え方、否定しきれないんですよね。自分もオタクですがエロゲやプリキュアは恥ずかしいからやらない見ないって態度です。昔は何どんぐりの背比べしてんだ、と自己嫌悪してたんですけど、最近は「自分はオタクだけど他のオタクとは違うと考えないとやっていけない器の小さい人間なんだ」とわかるようになりました。「時間は有限なのだから好きなものを好きなように消費すればいい。ただ自分がわからないものを触れもせずバカにするようなことさえしなければいい」、というのが今の結論です。くますけさんも「自分はオタク趣味は代替品だったと達観できるレベルの高い人間なんだ」という意識がアイデンティティなんでしょう。(ただの釣りコメントでしょうがw)こういうのはオタク世界に関わらず人間の普遍的な問題で差別しちゃいけないとかも似たようなもんだと思います。口では平等と言ってても差異や優越感がないと安心できないのが人間の本能なんでしょう。嫌いなものは嫌いでしかたないけど、そういうものが好きな人がいることを認めよう、ということを具体的な方法論でやっていくには…どうしたらいいんでしょう…地道な啓蒙しか今は浮かびません長文すいません。最後になりましたがコミケ、楽しんできてください!!
自分の場合、はじめて本屋で少女マンガを買った時がもっとも「覚悟」が必要でした。。今思うとそこが「一線を越えた」瞬間だったのかも。
「作品は楽しいところを探して楽しもうとするときに楽しくなる」という言葉、ここで初めて知ったんですが、いい言葉ですね!面白さとか楽しさっていうのは、与えられるだけだとすごく弱いんですよね。やるだけじゃなく作るのと同じで、与えられるだけじゃなく求めるという気持ちが大切なんだと思います。せっかくオタクになれたこの人生。積極的に楽しいことを見つけて楽しんでいきたいです。だからこそオタクに足りないのは覚悟だけじゃなく、積極性なんだと思います。同じオタクでも、創作したり企画したりしている人の方が元気だし楽しそう。例え受け手側だとしても、積極的にその楽しさを享受したほうがより楽しくなるんじゃないかなと。そして、そのための覚悟なのかなとも。
>あと、お金。これのせいで思いっきり楽しめないんですよね。時間も制限無ければもっといいのですが、ある程度はお金でどうにかなるし。
「俺に足りないのは、何かを楽しもうとする覚悟だ」という言葉が胸を撃ちました。自分は流行っている作品を避ける傾向がありまして、みんなが見ているのではなくてマイナーな作品を見て、みんなより自分はマニアックというか他の人より知識が深いだと優越感に浸ったり、流行っている作品なんて中身がないよと中身も見ずに決め付けたりしていました。今思えば完全に中二病でした。そういうことによって素晴らしい作品との出会いを自ら狭めていたと思うとかなり人生を損していると思いました。人に踊らされるのは嫌という考えで流行り物を見ないという考えも流行っているからという理由で作品の本質を見ていないので結局は人に踊らされているのでしょう。流行っている作品に踊らされるのは嫌という幻想は捨て去って純粋に作品を見て、つまんないと思っていたけどこれすごくおもしろいという出会いをたくさんしていきたいと思いました。どんな作品でも積極的に見て何でも楽しめるようになったらすごく人生が楽しくなるだろうと思います。
一部の作品を避けるのってやりますけど、それって自然だと思うんですが。映画でも自分のジャンル外ってあるじゃないですか。それを無理にアニメとかマンガとかゲームで一まとめにして全部好きとか言うほうが不自然かと私は思っていますただ、人にその好き嫌いを押し付ける行為だけが問題だと思うんですよ。でよく一般の人(?)叩かれるオタクの悪い面というはそういう「価値観の押し付け」かと。
はじめまして。『げんしけん』の話があったので。私は斑目さんの“オタクはなろうと思ってなるもんじゃなくて気付いたらなっているもの”という言葉を意識して、笹原の“覚悟”の言葉はスルーしてました。 確かに、“なっているもの”とは言いえていると思ってますが、そこに踏み込む事は出来る人としたいけど踏み込めない人がいるんだなぁと思いました。
この記事を見て自分がなぜこのサイトが好きなのかわかりました。たまごまごごはんを見てると、記事の隙間から「とにかくなんでも楽しんでみよう」というたまごさんの姿勢が伝わってきて、幸せな気分になれるのです。ほんとに文句なしに素敵な考え方だと思います。私が偏見を捨てて色々な作品に触れ、良作を探し出す楽しみを知ることができたのは、たまごまごごはんのおかげです。ありがとう。たまごまごまごごはんって打ちそうになった。
オタクなら面白いもの全てに触ればいいと俺は思いますでも触れても何が有るわけでもないですよね・・・作る立場の人間ならそれは義務みたいなものなんでしょうけど
女性と付き合ってるオタクも結婚してもそのままの人もいっぱいいるんだけどね?ヲタク趣味ってなくなっていきますよ=ヲタクはみんなモテナイからやってるだけwヲタク趣味がなくなっていきました=自分の場合こうだった文意というものに気をつけてコメントしましょうね。価値観の押し付けなんてオタクに限らずやる人いるのですが?オタクの悪い面=価値観の押し付けというのはオタクの中には価値観を押し付けるものという偏見があるからでしょう。(それはただの個人差)一般人から叩かれてるのはなにより「キモイ」というイメージでしょう。私の場合ディープなオタからすればオタクといえないレベルで一般人から見ると間違いなくオタクなレベル。まぁつまりオタクなんて言葉が指すのなんてそんなもんですから気にせず好きなものを楽しむのが一番ということですね。
追記私の友人に到底オタクといえない流行に流されまくりの人いるのですが(まぁ流行オタクといえないこともないですが)、「良いんだってコレマジで。やってみちょっと」としょっちゅういってくる(そのくせ一ヶ月もたてば興味失ってるし)奴がいるんですがこんなのどこにでもいるし。お見合い大好きおばさんとかだって感想さんのいう例に当てはまると思いますし。この場合のヲタクに限らず野球ファン(あまりオタクとは言われない不思議)にしろ洋楽マニアにしろそういった押し付けをする奴もいるしひっそりやってる奴もいる。なので「価値観の押し付け」をオタクの悪い面なんていうのは無理がある。オタクは価値観を押し付ける。格好に気を配らないからキモイ。同人誌やら作画やらについて語りまくる。モテないからはけ口として二次元にハァハァ言ってるだけ。ロリコンで陵辱監禁大好きでエロゲーやりまくってる性犯罪者予備軍。そういったイメージが一般人から嫌われ、自分はオタじゃないという人が増える原因なのでしょうね。
はじめまして。文章、大変興味深く読ませてもらいました。以下、僭越ながら私見を述べさせてもらいます。積極的に物事を楽しもうとする意識、大事なことだと思います。ただ、それが度を過ぎると、楽しもうとするばかりに自分自身の気持ちを蔑ろにしたり、自分の感性を軽視するといった危うさも滲み出てくる場合もあるのでは?「つまらない」ものを「面白く」だけではなく、「つまらない」ものを「つまらない」とする、これも同じく大事なことだと思います。たとえば・・恋をしてる時には意中の人の仕草はどれも可愛らしく見えるものですが、事が結婚に及ぶと、相手のプラス面とマイナス面を慎重に考えるようになるのではないでしょうか。楽しいことを積極的、能動的に探しながら、他人とは違う自分を「自覚」し、自分で評価し、その上で楽しむ。オタクに徹する限り、オタクに求められているのは「覚悟」と「自覚」、あとお金(笑)かと考えます。Blog文の主旨と違っていたらすいません。オタクの定義付けは個人個人で違うためかこういう話題は難しく、また、いろんな意見が出て面白いです
はじめまして。「覚悟」と言うのは「金や時間がかかる」のも無論ですが、「自分の上限」を越えてみた人達の事だと思います。「できない」「無理」「何もそこまで」最初っからこう思ってる人には絶対越えられない壁でしょうね。「自分のキャパシティ」を自分で決めつけてるみたいで。「越える」と実に楽しいんですがね。「食わず嫌い」はなくなるし、(とりあえず首突っ込んで「あ、生理的に合わんわ」ってのはありますが)。趣味のカテゴリーが増えて、「これ以上ついていけん」と思ったらそこでブレーキかければいいだけで。ただ、趣味の押し付けはいけませんな。むしろ、「自分が楽しそうにしてるところを周りに見せる」事で「ちょっと興味持ってきた」と思わせる方がベターだと思います。それでこちらに色々聞いたりするならできるだけのバックアップはしたいですしね。
はじめましてです。スタンスにすごく共感したのでコメントさせていただきます。 自分がいわゆるオタク文化に最初に触れたのはライトノベルだったと思いますが、その中で「こんなに面白い話があるのに知らないまま過ごしていたなんて勿体ない!」と思うものがたくさんありました。その時期から徐々に、偏見の目で見ていたアニメやマンガなんかも、とりあえず売れているもの・勧められたものは見てみよう、面白かったら儲けだ と考えまして、その時から格段に取っ付きやすくなった気がします。こういうことですよね?一時は布教厨と化してたりとか、今となっては苦い思い出です。自分はやはり偏見の目を気にしてオープンには行けないので、好きなもんは好き と言えるネット(ブログ)環境があることに感謝してます。
恋とはするものではなくて落ちるものだと言います。オタクも同じでなるものではなくて堕ちるものでしょう。
おたくも極め尽くせばそれで食えるようになります。「おいしんぼ」の世界じゃないですけど「究極のおたく」となりましょう
筋肉少女帯再結成初のニューアルバムだ!ロッキンホースバレリーナが目印。あの名曲「イワンのばか」ニューアレンジも収録。
ラミエルのシーンはほぼ新作で、今後どう展開していくのか謎だらけながらも「ああエヴァ面白いな」としみじみ感じさせられる傑作。2の情報はまだかしら。
「アオハルッ!」元気はつらつに飛び回る子供たちの淡く明るい、恋愛と友情、そしてアホの子。明るさが目にしみてなぜかじわじわ涙がにじむ逸品。
まったく別展開の小説版は、子供たちの姿にスポットをあてたジュブナイル。コイル好きなら新鮮に楽しめます。
タカハシマコ「乙女ケーキ」。百合好きなら特に「タイガーリリー」は必見。少女達の身体感覚と心のありかを繊細なタッチで描いた傑作集。
乙ひより「かわいいあなた」。やさしく流れる時間と、ゆったりとした安心感と体型。女の子同士の情の通い合いをしっかり描いた傑作。
星里もちる「わずかいっちょまえ」。あの子供だった日々を思い出す人へ、子育てをしている人へ、次の世代の子供達へ伝えたい、私の選ぶ一冊。
あさりよしとお「なつのロケット」あの時、全力で科学へ挑もうとした心をぼくは忘れない。「まんがサイエンス2」とあわせてロケット入門書としても使える一冊。
[マンガ会議]恋するヒロインがぼくらは大好きです。「男女とも楽しめる少女漫画会議」第一部〜男から見た少女漫画の思い出〜
[マンガ会議]少女マンガを様々な視点から楽しもう!「男女とも楽しめる少女漫画会議」第二部〜男でも女でも楽しめるオススメの少女漫画〜前編

 

[ 178] 村上春樹氏:ロングインタビュー 僕にとっての<世界文学>そして<世界> 第1回=翻訳の限度は50年 - 毎日jp(毎日新聞)
[引用サイト]  http://mainichi.jp/enta/book/news/20080512mog00m040033000c.html

作家、村上春樹さんがこのほど毎日新聞の単独インタビューに応じた。『海辺のカフカ』(02年)以来となる大長編小説を執筆中という村上さん。多忙な時間を割いて、最近翻訳した名作への思いから出版界の古典新訳ブーム、「9・11」後の時代認識に至るまで幅広く、熱く語った。【構成・大井浩一】
村上さんは創作と並行してアメリカ文学の翻訳、紹介に積極的に取り組んできた。そうした中で、「これだけはやりたいと思っていた」重要な作品が、サリンジャー『キャッチャー・イン・ザ・ライ』、フィッツジェラルド『グレート・ギャツビー』、チャンドラー『ロング・グッドバイ』(以下では『L・G』)、カポーティ『ティファニーで朝食を』の四つの長編小説。これらを03年から今年にかけて次々に新訳・刊行した。いずれも各作家の代表作というだけでなく、高校時代以来、何度も繰り返し読んできた「個人的に好きな」作品でもある。
「フィッツジェラルドはずっと訳してきたけど、それ以外は同時代的なものを中心にやってきた」村上さんが、「古典」に挑むようになった理由は三つある。一つは「だんだん翻訳の手ごたえがつかめてきて、そろそろ僕の腕でもできるんじゃないか」と考えたこと。次に「古い翻訳がちょうど『賞味期限切れ』の時期に来た」タイミング。そして「同時代の新しい作品の翻訳は若い翻訳者がやるべきだ」という考えからだ。
二つ目の理由については、日本語の文体そのものの変化により、「限度は50年」と話す。今は1960年代前後の文学全集ブーム時に盛んに訳された作品が、次々と「期限切れ」を迎えているという。
4作に共通する要素として、村上さんは「都会が舞台になっている」ことを挙げる。確かに『キャッチャー』『ギャツビー』『ティファニー』はニューヨーク、『L・G』はロサンゼルスが舞台だ。「結果的に都会小説みたいな文体の作品が僕の翻訳の中心になっていますね」
この「文体」こそ、村上さんが4作それぞれに魅力を感じ、探究してやまないところだ。中でも「チャンドラーの文体にすごくひかれる」と言葉に熱を込めた。「あの人の文体は何か特別なものを持っている。何が特別なのか昔から疑問だったんだけど、訳してみてもまだ分からないですね」
その文体の秘密に対する強い関心は、『L・G』に長文の「あとがき」を執筆したところにも表れている。そこで村上さんは、〈一種のブラックボックスとして設定〉された「自我」の扱いに、〈チャンドラーの創造的な部分〉を見ている。
一方、フィッツジェラルドとカポーティの文体については「とにかくうまい、きれい、リズムがいい、流れる。これに尽きる」と話した。とりわけフィッツジェラルドからは「文章に対する志の高さ」を得たという。「だから自分の書く小説の文章もまだ直せると思う。それはフィッツジェラルドの文章が僕にとってスタンダードになっているから」
また、この二人の文章は「僕が書くタイプの文章ではない」と、自らの作品の文体も分析してくれた。「そんなに流麗な文章は僕は書かない。ただ、そういう文章の艶(つや)とかリズムとか流れを、僕はもう少しシンプルな言葉で出したいと思っている」=つづく
毎日jp掲載の記事・写真・図表など無断転載を禁止します。著作権は毎日新聞社またはその情報提供者に属します。

 

[ 179] たけくまメモ : 「うつうつひでお日記」に見る物書きにとっての恐怖
[引用サイト]  http://takekuma.cocolog-nifty.com/blog/2006/07/post_d183.html

吾妻氏の新刊「うつうつひでお日記」、正式発売日は週明け10日なんですが、すでにアマゾンや一部書店でも入手できるらしい。今見たらアマゾンで42位と、さっそく売れているみたいです。よかった。
ただ、前のエントリのコメント欄でも書きましたが、本書は『失踪日記』の正式な続編ではありません。続編は、アルコール中毒の闘病をテーマにした『アル中病棟』で、前作と同じくイーストプレスから出版されます。角川から出た今回の『うつうつ』は、地獄の闘病生活から脱出した後の「平穏」な日々をしたためたマンガ日記でありまして、一度作者自身が出した同人誌を中心にまとめたものです。まあ、主人公は同じですので続編といえば続編なんですが、エキセントリックな描写は今回ほとんどありませんので、注意してください。
とはいえ、この表紙だったら続編と勘違いされても仕方ないよなあ。角川書店、明らかに意識して売りにかかってますね。でもまあ、この本も『失踪日記』とは別な意味でとても面白い本なので、どういうかたちにせよ売れるに越したことはないです。
それで今度の本で俺が面白かったのは、たとえば前回エントリでも少し紹介した、『失踪日記』出版に関する部分なんですがね(本書は、『失踪日記』が出版される直前までの日記で終わっている)。けっこうあちこちに、吾妻さんが版元と交渉して「断られる」描写があるんですよ。これが同じフリーの物書きとしては、いちいち身につまされる。つか、俺自身、何回も似た体験をしているもので。
たとえば左のコマみたいな。これは、『失踪日記』のベースとなった『夜を歩く』を連載していたコアマガジンのHさんから、「他社の売上げがネックになって、企画が通らない」ということを電話で告げられるシーン。それで吾妻先生、「最近なんかよくこの売れゆきデータのことが他社に全部つつぬけで指摘されることが多い……前にもあったな」とつぶやいて、
このあたりの描写、一般読者にはよくわからないかもしれないが、もの凄くリアルです。俺も、前の本の売れ行きが悪かったことを理由に、ある本の出版を断られたことがありました。それも複数の版元から。ところが著者である俺は、その本が具体的に何冊売れたのかまったく教えてもらってないので、納得する以前に、気味が悪いわけです。まるで業界全体に「あいつの本は売れない」と回状がまわっているような感じで。
たとえばサラ金の場合、借り主のデータが即、業界全体に回るシステムになっていて、初めて行った店であっても「こいつは他社からいくら借りている」ってのが筒抜けになってますよね。金融業者間には顧客の債務状況とか、信用状況を調べる専用のデータベースがあって、その場で検索できる。
なんかサラ金のあれに似たシステムが、ここ10年くらいの間に出版業界で密かに整備されていたみたいなんですよ、著者たちの知らないうちに。
紀伊国屋の売上げデーターベースとか、取次のデータなんかが会員の版元には閲覧できるらしい。まあ、ここ10年の出版業界全体の落ち込みを見ていると、売れ行きで作者のランクを決めて、次の出版の目安にすることは分からないではないですよ。昔から「出版はギャンブル」と言われるわけですが、完全にギャンブルになってしまうと、ビジネスとしてはさすがに立ちゆかないわけでしょう。
著者としても、具体的なデータで示されると、そりゃ引き下がらざるをえない。たとえどんなに「俺の本は面白いのに」と思っていてもですよ。「売れない」という厳然たる事実の前には説得力を持ちません。しかしその結果、売れる著者の本は優遇されるのでますます売れ、売れない著者の本は、冷遇される以前にそもそも出せない。ということになります。
資本主義の原則としては、しかたがないと思われるかもしれないが、しかしこれは、「売れない=つまらない」ということでは、必ずしもないことに注意するべきです。世の中には、すごく面白いのに、全然売れない本というのもあったりする。この場合の面白さとは、たぶんほとんどの場合は「一部の人にとって面白い」ということなのでしょうが。
でもそれ以外でも、版元がデータ主義にとらわれるあまりに「見落としてしまう」事例というものがたくさんあるわけです。そして、まさに『失踪日記』がその典型的ケースだったといえます。「内容が面白く、しかも一般性があるのに、過去のデータにとらわれて出版を断念されてしまう」というケースですね。
最終的に出版を決意したイーストプレスのKさんにしても、『失踪日記』が売れるとは、まったく考えてなかったということです。しかし、『失踪日記』が傑作であることは、まともにマンガを読む目がある人にとっては明らかなことです。たんに吾妻個人の傑作というより、歴史に残る作品だといってもよい。
こういう作品を前にしたとき、出すか、出さないかは、編集者にとってのもっとも重要な決断だといえるでしょう。これこそが「出版はギャンブル」と呼ばれるゆえんでもあります。もちろん売れること、最低でも赤を出さないよう配慮する必要はあるわけですが、そこも編集の手腕といえる。『失踪日記』に関しては、僕が知る限りでも、近年稀にみる「爽やかなギャンブル」でありました。
でもあります。それにしても『うつうつ』のあとがきにある、本が売れてからのマスコミの「てのひら返し」ぶりには笑った。いや、ホントに、そういうものなんだよなあ。まあ吾妻さんはあくまでマイペースでやっているみたいで結構ですが。
「うつうつひでお日記」に見る物書きにとっての恐怖(たけくまメモ)紀伊国屋の売上げデーターベースとか、取次のデータなんかが会員の版元には閲覧できるらしい。
著者としても、具体的なデータで示されると、そりゃ引き下がらざるをえない。たとえどんなに「俺の本は面白いのに」と思っていてもですよ。「売れない」という厳然たる事実の前には説得力を持ちません。しかしその結果、売れる著者の本は優遇されるのでますます売れ、売れない著者の本は、冷遇される以前にそもそも出せない。ということになります。これはもう竹... [続きを読む]
S・キングの小説やブラッドベリのエッセイなんかでもボヤかれていたが、アメリカでは随分以前から、小売で書籍がどのように動いているか販売データが細かく管理されるようになってるらしい。
おかげで売れない作家は途端に食い詰めるし、売れたら売れたで同じような作品ばかりを求められるとか。外国の話だとばかり思っていたら、最近は日本でも同じようなことがあるようだ。
「他社の売上げがネックになって、企画が通らない」というよりも、低い数字が刻まれるのは危険なので、単行本を出すことができない・・・って言う感じなのが、最近の出版界なんですな。確実に部数が出る、という保証のある作家だけが、単行本というまとまった収入を得る権...... [続きを読む]
『失踪日記』が、吾妻センセの後期代表作になるだろうことはもはや明白ですが、やはり売れすぎた感は否めません。『うつうつひでお日記』は『失踪日記』が売れる直前の日記です。この日記にはちょこちょこ「貧乏」というキーワードが出てきますが、実際月産2Pではほぼ...... [続きを読む]
早速買って第一話のネームのくだり読んでみていて思ったのですが、このシニカルなオタネタは久米田康治に通じるものがあるのは気のせいでしょうか?
書籍の部数に関しては、「業務・製作」を通して、「印刷所」から部数を「販売」「編集」が知る、というのが基本的なパターンなんです。奥付に印刷所が書いてあって、それが大日本とか共同印刷とか、大きいところで、そこと取引をしていたら教えてもらえるわけですね。ただ、「部数」は知ることはできても、「売れ行き」までは不明なんで、それはどうやって各社は知ってるんでしょうねぇ。
今時POSを入れていない書店はないし、バーコードやISBN番号を入れていない本もありませんから、本の売れ行きはリアルタイムで集計されています。
勿論、返本期限が来るまで正確な実売部数というのは分からない訳ですが、大規模書店やチェーン展開している書店のPOSデータなら。最終的な売れ行きとほぼシンクロします。
取次はそのデータを元に扱い部数や配本パターンを決めている訳で、その情報は当然出版社にもフィードバックされています。
新井素子が美少女作家としてもてはやされ、作品も次々出版されたあの頃、美少女とオタクマンガ家の交換日記はそりわそりわほのかな劣情をアレしたものです。
「ひでおと素子の愛の交換日記」は、新井素子さんのアッパーでシュールなエッセイと、吾妻ひえおさんのシュールでダウナーなイラスト、これに秋山さん(?)という担当編集者のエキセントリックな人柄が反映された、なかなか面白い本でした。
成功者が等比級数的に成功して、実績のない新人や、一度失敗した人がチャンスをもらえないというのが資本主義の特徴ですね。
ビジネスの世界でも、ときとして逆境にある「負け組」が、創意と熱意で逆転を果たすことがあり、それが世の中に希望をもたらすのだと思います。
『失踪日記』はここのおかげで早期に手配をかけられたので品切れを起こすことなく順調に売ることができました。感謝!
…で終わればいいのですが、なるほど日の目を見られないどころか世に出ることができないというのは如何ともし難いですね。年々返本率が上がりつづけ売上額は下がっている業界ではどうしても効率を追求してしまうのでしょうが残念な状況です。
竹熊さんも、失踪して、ホームレスして精神病院にはいったあと、竹熊失踪日記を書けば売れると思うけど…? こういうものは、内容がどうあれ、話題性で売れると思います。
10数年前は本屋のマンガはほとんど「立ち読みOK」であり、読者もその場で内容を確認して購入することが出来ました。それが出来ない現在はマンガ喫茶という新たな手段を読者が得たおかげで、今度は新刊が売れないというジレンマに陥っていると思います。
今、ネット発信のマンガや小説が単行本化されたりしてますよね(今日の猫村さんとか)ネットの便利なところはお金をかけずに世界に配信できる」ということがあります。
つまり、例えば一話だけ全編配信、みたいなことをもっと作家や出版社側で行った方がいいんじゃないかと。
ただ、これを妄信しても業務の大半がデータとの格闘になってしまうし、何より自分のアンテナの感度が落ちるんで、ここぞというところでエイヤッとまとめて使うことが多かったですかね。
各社営業同士、持ちつ持たれつで互いに電話なりメールなりで「あの著者の新刊企画が編集から来てるんだけど、あんたんトコのアレ、実売どんくらい?」なんてーのは日常茶飯事。
つーか倉庫に本がある限り、何時注文くるか分からんことを考えると、実売なんて動的な数字でしか把握できませんww
ただ、マイナージャンル刊行物だったりマイナー版元だったりする場合、買取原稿だったり「印税は初版分のみ」契約だったりで、重版しても著者が知りえないケースもままあります。
正直「夜を歩く」を読んでいたので失踪日記はあまり衝撃的でもなかったというのが感想です。いきなり失踪日記を読んだ人はそりゃびっくりするでしょうが・・・。
個人契約の仕事をしている自分としては「お金」が仕事を引き受ける、あるいは継続の判断をする重要な要素ですから、マンガ家も何か出版したら「あれって何部売れましたか?」と聞いても問題ない(むしろ聞かない方がおかしい)んじゃないでしょうか?
ただどうしてもこういうデータは偏りが(チェーンの色で)発生しがちなので、どちらかというとこちらのデータは「適正配本」の資料になりますね。
営業はどんなにコミックが分かってても「マンガなんて読まねーよ」って書店さんの意見を代表しなきゃいけない部分があって。
書評・コラム等からの情報流通がかなり十全に行き渡ったから、コンテンツとしての良さが適正に伝わっていったと思いますが、それがなかったら、書店の隅に埋もれている可能性もあったと思います。
そして自分の担当企画の書籍が売れないと、担当編集は営業の…特に在庫管理担当の重鎮あたりから、平気で悪し様に「倉庫にゴミ作りやがって」とか言われます。
年間実績評定でも、こういう企画が続くと「×」扱いがガッツリ残って、クビのかかった問題になってきます。
だからこそ大手はマス狙いの上澄み的な企画が増え、意欲的な企画がマイナー版元でないとやりづらくなっていくワケですが。
とはいえ、そういった様々な軋轢が想像される中で「失踪日記」を出したイーストプレス担当編集さんと営業さんは、いい仕事をしてくれたと思います。一マンガ読みとして。
ネットの普及で以前に比べて面白いマイナー漫画の情報が大きく広がりやすい時代ですから、作家さんには希望をもった描き方をしてほしいですね。
逆に言えば大手出版社にとっては地獄かもしれません。これまでみたいなメジャー雑誌に掲載=確実に売れる、ということがすでにない状態ですから。いよいよあの週間マガジンでも売れそうもない作品に関してはコンビ二版でいきなり単行本化みたいなのも出ているようです。
現営業ですが、他社の本の部数については、出版社の営業同士が連絡を取り合って部数や実売を教えあうことも多いですね(嫌がる版元も多いけど、最近はお互い様みたいな感じになってるほうが多い)。もちろん、取次の窓口にこっそり教えてもらったり、紀伊國屋Publineのデータから推計したりすることもあります。
確かに営業の仕事の一つには「売れない企画をとめる」こともあると思います。それが編集者や著者から見ると敵に見えることもあるかもしれない。だけど、「売れないと思われている企画を売れる商品にもっていく」のも、営業の大事な仕事だと思っております。明らかに出版点数過多なこの時代においては難しいけど、本当に面白い、良いと思ったものについては頑張るしかない。
以前に、埋もれてた良著を出しなおそうよ、と社内でアピールし続けて営業内でも編集からも煙たがられて、でもなんとか刊行にこぎつけたところで「お役御免」になって。
結果的にその本はかなり好調だったのか、著者の仕事が段々増えていったのは、見ていて小気味いいモノもありつつ複雑でした。
営業もそうですが、編集、そして著者自身にも企画をいかに興味深いものに見せるか…というプレゼン能力的な何かが、これからは必要なのではないでしょうか。
私も出版社で働く現役の営業です。他社の数字、ここ数年でかなり正確にわかるようになってきました。一昔前は自社の売行きの数字すら把握できない業界だったので、正直、隔世の感があります。
しかし、せっかく他社の数字までわかる時代になったのにそれをネガティブな方向性でしか捉えないのは勿体無いですよ。
「この著者の本、オレが担当だったらもっと売れる企画にできる」という編集者や「この著者の本、オレが売ったらもっと数字は行ける」という営業、「オレならこう宣伝して○○万部は固いぜ」という宣伝担当者とか、出版不況からの脱却にはそういう発想が求められてるんだと思います。ま、けして簡単な話ではないんですが。
その数字、著者にもすぐ閲覧できるようにしてほしいものです。自分の本なのだから、著者も知りたいわけですよ。教えてくれない編集者が多くて……。
というのは冗談で、大抵のデータは法人がマーケティングに利用するためのものという位置付けで社外秘の扱いになる(契約そのものがそういう内容です)ので、「著者がすぐに閲覧できる」ようにするのはちょっと難しいと思います。他社のデータの扱いなんかも本当はかなり慎重に扱うべき話題なんです。
あと、アマゾンのランクなんかと同様に気にしすぎる著者の方がいたりするのでそれを警戒しているのかも知れません。ちなみにオンライン書店の実際の数字についても一部の出版社は把握しているはずです(すみません、この辺は曖昧にさせてください)。
私は話をややこしくしないために「契約のレベル」なんて言い方を使ってしまいましたが、正確にはTOSHさんのご推測されてる問題です。
交渉にならない。編集・出版社側での判断でしか決定されない。しかも辞退理由が絶対に著者にわからないとなると。
所詮これらは「過去のデータ」でしかなく、「将来」を決定するわけではないが、「過去これだったんだから将来はこうだろう」と考える。で結果として決断が保守的になり博打が打てない。サラリーマンである以上保身を考えれば当然かとも思います。相手(著者)のことなどかまっていられない。データであれば編集者も上司も同僚も納得する。「これだけしか売れない人に新しい企画で本は出せない」という「結果」に、それを説得して本を出す場合、その編集者が社内リスクを全てかぶることになる。今の編集者で、出版を博打、と考える人は多いとは思えない。リスクを考え、リスクヘッジすれば、「過去売れてない著者の本は出さない」とするのが経営的には妥当。
「社外秘」のはずのデータが、なぜに「別の会社の人間」にまで筒抜けであるのかが、この問題の本質ではないでしょうか。
僕が「サラ金の信用管理システム」について持ち出したのは、まさに著者からすれば同じような気持ち悪さがあるということです。
というか、サラ金の信用情報は、所定の手続きをとれば本人には閲覧できるそうです。しかし自分の本の売れ行きは、親切な版元の人が個人的に教えてくれる以外、知りようがないのが実情です。
リスクヘッジばかりに目が向いてしまうとそういう傾向にもなりがちですが、単純な機会損失の減少や増刷部数等の決定、地味なロングセラーの発掘などなど役立っていることのほうが多いですよ、データ。使い方の問題だと思います。
>「社外秘」のはずのデータが、なぜに「別の会社の人間」にまで筒抜けであるのかが、この問題の本質ではないでしょうか。
それはあると思います。この場でも話題になっているK書店の仕組みですが、立ち上げの際に他社データの閲覧を可能にするか否かについてアンケートが実施されました。その当時自分は雑誌がメインの出版社にいたので部数を公開されることに抵抗があったのですが、そういう意見は圧倒的な少数派でした。ちなみに今は大手の広告代理店もそのデータを見ています。雑誌の実売なんかまさに「筒抜け」なわけです。広告営業の苦労がしのばれます。
そういった「知らないはずなのに知ってる」という前提があってはじめて、雑誌の実売部数のABCでの公開がようやく進んできました。書籍の実売についてもどうせ公開するならちゃんと公開してしまうという手もあるとは思いますが、公開する側の書店(取次も)にとってはシステム構築にかかった費用があるのですぐには難しいと思います。ただ、方向性はそちら(公開)です。まだまだ時間はかかると思いますが。
それは業界様の都合でそーなっておるのだからたけくまさんたちは理解せよ、というのを婉曲に言っている感じ受けますね。
えーと、ビジネスライクな感覚をお持ちで、かつ売れ行きのよろしい作家さんには伝えることも多々あると思います。
一方で数字に対して怯えがあったり、売れ行きが芳しくない場合だと、伝えてしまうことで進行中の作業や関係性に支障をきたすことも少なくないかと。
確かに出版社は知っていて著者は知り得ない(開示されるかされないかは編集の胸先三寸)というのは気持ち悪いかもしれませんね。
まず読んでみない事には、本なんて内容云々が分からないわけですし、やはり本の世界にも「体験版」というか「立ち読み版」が欲しいところですね。
現在ではせっかくインターネットという環境があるのですから、容易にはテキスト情報が複製できない形式(SWFフラッシュファイルやPDFファイルなど)で、出版社サイトから立ち読み版を読ませてくれればいいのですが。
ジャンルによってはけっこうここらへんのパブリシティは活発で、エロゲなどでは会社HPから体験版(一章分だけ遊べる)がダウンロードできたりあるいは「エロゲ雑誌」の付録CDに体験版を収録したり、また映画でも最近は公式サイトからテレビCM用の予告編映像や、出演俳優へのインタビュー映像が見られたりします。
日本の出版社には、「出版物の面白さを知ってもらうためには“出し惜しみ”をするな」と意見したい気持ちです。関西商人じゃありませんが、『損して得取れ』って言葉はまさに格言だと思います。
あの松下幸之助も、自社開発の新製品である自転車用ランプの良さや耐久性を知ってもらうために、当時としても破格の「試供品を一万個も無料で提供」というキャンペーンを打ったのは有名な話ですし。
TOSHさん御自身が真摯にお仕事をされていることは分かりますが、しかしお返事拝読してもどうにも筋の通らない感じがしてなりません。
たけくまさんが言っておられる通りで、自分に関する情報(自著の正確な売上数)を自分が知らないのに他者(別の関係ない出版社)が知っている、という状況は、社会通念から鑑みても健全なあり方ではありません。公開の方向に向かっている、でも時間もかかるのでもうちょっと待ってて、というのは強者(出版社)の論理にしか見えません。他社に見せているのであれば、すぐに(というかその前に)著者に知らせる、もしくは知りたいかどうかを確認して、知りたいという著者には伝える、のが筋でしょう。
>あと、アマゾンのランクなんかと同様に気にしすぎる著者の方がいたりするのでそれを警戒しているのかも知れません。
そういう著者を上手く鼓舞するのは編集者の仕事の内でしょうし、またそこで気にしすぎで自滅するような著者は物書きとしてのプロ根性に欠ける証拠ではないでしょうか。だいたい、売上数を知ることがガンの告知を受けることと同じようなダメージを与えるかのごとくイメージし、考えること自体、売上数に過剰な意味づけをしすぎだと思います。どうせ、最終的には印税で分かることなんですから(買取の原稿でなければ)、いつかはざっくりとした数字でも知ることになるわけです、著者は。
今はごく普通のブログでも毎日の閲覧者数が確認でき、プロの著者でもなんでもないブロガーですら自分の書き物に対するリアクション(数もですがそこにつくコメントも)を毎日受け止めつつ日々暮らしているような時代です。プロの物書きがそれ以下の情報水準でいい、それでもいい書物が書けるはずだ、というのは、ものすごく時代遅れのように思いますが、いかがでしょうか。
悪気はないと思うので、本当に悲しいです。本屋には「立ち読み」もできてその場ですぐ買える送料無料の本やコミックが並んでいます。「本屋じゃ本なんて買わないよ」「オレの欲しい本は本屋には並んでいない」「本屋まで行けという態度が傲慢だ」「インターネットで立ち読みがしたいんだ」と言われてしまうかもしれませんが、ぶらっと入る本屋は本当に面白いと思うんですがどうでしょうか。
社会通念や「筋」の問題と言われると反応に困りますが、現時点ではデータの公開に契約上の制約がある、ということです。
私が出版業界を代表する立場にあるわけではないのでこの話をこれ以上突っ込まれても感想しか言えなくなりますが、大手の出版社はいざ知らず中小零細(ウチも)では著者のほうが圧倒的に偉いですよ。困り果てるぐらい。
インタラクティブな反応に基づいて変化していくコンテンツと特定の時点で切り取られたコンテンツでは評価やリアクションの方法が異なっていても良いと思いますし、どちらが「正しい」ということでもないと思います。むしろ脊髄反射的に反応してしまわないことのメリットもあるのではないでしょうか(話の流れと大幅にずれてますね、たけくまさん、すみません)。
契約書は無い。売り上げ実数は秘密。著者の方も「物が売れる」ではなく「本という形になる」ことに重きを置く。
現代のビッグビジネスは顧客のニーズにあった商品をリーズナブルに満遍なく提供することで商売は成り立っているようです。そのために流通を合理化し、より回転の速い商品を次々とリリースして行く。
しかし、出版という分野は文化的・芸術的側面が強いですよね。いわば、商品の価値はニッチにこそある。ニッチでありながら普遍性を持ったものというのは現代のビジネスの考え方からすればどうしても矛盾を抱えたままになってしまう。
インターネットの普及によって急激な変化が現れるんでしょうねえ。すでにこうしてその兆候はあるわけだし、矛盾の指摘がされているわけですから。
の内容が、同業他社には公開できて著作者には公開できない、という契約内容だとしたら、かなりヤバイもんだと思うんですが。もしも訴訟でも起こされたら、勝てなさそうなくらい。
情報を持っていてお金を支払う方がこれを言うとはなー。そうご自分が思っている、だけの話ではありませんか、これ。相手が手塚クラスの名の通った(つまり社会的地位のある)著者ならいざしらず。
多くのまんが家やライターは、自分が切られて他のまんが家やライターに自分の描く(書く)分を持ってかれるかも、という焦りは絶えず持っているものだと思います。それを表に出すかどうかは、人によると思いますが。
これは立場と見解の違いだと思うので、特に進展がなければお返事必要ありません。単なる当方の感想ということで、ご理解ください。
弊社もそうですが、多くの出版社はマンガを出版していませんし、いわゆる「ライター」に原稿を依頼することがほとんど無い社もあります。「たけくまメモ」の場なので皆さんの前提として「マンガ」や「ライター」があったと思うのでこれは私の方がうかつでした。反省しております。
>ニッチでありながら普遍性を持ったものというのは現代のビジネスの考え方からすればどうしても矛盾を抱えたままになってしまう。
私の発言で出版業界を理解されてしまうとまずいとは思いますが、これについては私も単なる感想として。「近代的で合理的な仕組みで動いている業界」って、そんなにいっぱいあるもんですかねえ。前近代性も非合理も矛盾も、どこの業界でも大なり小なり存在すると私は思っています。
TOSHさんの仰るように、直接的には契約上の問題です。これをどこかの社が、どこかの社の誰かが単独で「変えよう」と言ったところで、直接的にはどうにもなるものではありません。
自分の著書が書物という「商品」として八百屋の野菜と同様に市場に流れることにショックを受けた、といった趣旨の。
何かが「悪さ」をしてこうなっていると仮定するなら、メーカー・流通・ショップの分離という構造そのものになります。
当該書籍を「商品」として動かす以上、その動向データは物流データとして流通・ショップにとってメシのタネの1つとなりうる情報です。
消費者が購入するまでの過程でワンクッション生じるたびに、それぞれ利害の(多少なりとも)異なる者が関与することになるので、その全ての合意を取り付けるのは至難の業です。
本来は情報は余所に流すべきではないのが建前ですが、適正部数刊行のために情報がどうしても欲しい場合はあるワケで。
営業の販売戦略担当をやる者が誰しも身につまされる話なので、だからこそこういう「持ちつ持たれつ」が発生しているのだと認識しています。
とはいえ、問い合わせること自体、一種(営業担当同士だけで考えても)「借り」を作っているようなモノで、本当にデータが必要な場合以外にはこんなこともやりませんよ。
出版社がツルんで情報を隠蔽している…というイメージは、現場を見た人間にとっては、ある意味「ビッグ・ブラザー」幻想・「ビッグ・マザー」幻想などと呼ばれる類のものではないかと思えます。
ただこういった、いわば「試用版」露出はセールス・プロモーション用途として、この窓口権の派生行為と捉えることが多いと思います。
で、こういう場合、ホントに書影だけとかいった通り一遍の素材露出ならいいのですが、そうじゃない場合は著者の了解が必要な場合が殆どです。
「通り一遍」の要素になる「あらすじ紹介」でも、一応著者に読んでもらって了解取るというケースが多いですし。
ただでさえ「出版不況」とか言われて人手も減っている中、そしてそんな状況下で夢を見てる人は絶えないのかマンガ雑誌がまだまだ創刊されたりしている中で、それらの作業にどれだけのマンパワーが割けるか、ということではないでしょうか。
逆に、現状では非公開原則・公開例外な状況だから、出版契約で明文化して原則・例外を逆転させる…という案も考えられますが、なまじドッグイヤーなネットの世界ですから。
今日セキュアで実用的な技術が、明日も同様かという保証がありませんので、ちょっと難しいのではないかなと思います。
そういう意味で、いわゆる「試用版」公開をやっている会社さんは、(実際に上記の手間をかけているワケだから)寧ろ頑張ってプロモーションに配慮しているのだと私は思っています。
特に著者には実売を知らせずに、出版社間で情報を共有することを「必要悪」というのは、依然として著者には「不愉快」なものと感じますが、版元の立場としてはそのほうが便利だからそうしているのでしょう。
このことに対する僕の考えですが、これはもう、今後は極力、出版社に依存しないでも「食っていく」体制を著者として作っていくしかないと思っています。夢物語のように思われるかもしれませんが、結構本気です。
俺みたいなのが一人や二人、いたところでどうなるものでもないでしょうが、これが百人、二百人となっていけば、いずれは版元も考えを改めるかもしれませんし。まあ改めなくてもいいんですが。こっちも勝手にやるので。
篦棒な人々ー戦後サブカルチャー偉人伝 オリバー君を呼んだ興行師康芳夫、怪獣図鑑の挿絵画家石原豪人、月光仮面の原作者川内康範、万博会場を全裸で疾走した前衛芸術家糸井貫二ことダダカン、戦後サブカルチャーを築き上げた超人たちのロングインタビュー集堂々文庫化!
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庵野秀明 スキゾ・エヴァンゲリオン大泉実成と竹熊がタッグを組んで庵野秀明の真実に迫る!中古で1円から(笑)。

 

[ 180] 「Firefox 3」がマイクロソフトにとって脅威となる理由:スペシャルレポート - CNET Japan
[引用サイト]  http://japan.cnet.com/special/story/0,2000056049,20370332,00.htm

みんなが同調してくれることを期待しているが、ネットサーフィンに関する私の最大の心配事は、今でもセキュリティだ。そして、この点でMozillaの関係者たちは非常に興味深い仕事をしている。とりわけ、次の2点に注目してほしい。
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具体的に、「じゃあその理由は何なの?」と言う点が簡潔に挙げられていない為、非常に分かりづらい文章だ。
そのタイトルが内容と一致していると思えない状況では、読者は欲しくもない情報に時間を取られると言う不本意な労働を強いられ、不満を感じるのではないだろうか。
少なくとも私はこの文章に対してこのタイトルは不適切だと感じたし、この内容である事が分かるタイトルが付けられていれば、この記事を読むために時間を割こうとは考えなかったのは間違いない。
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