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[ 8] 極東ブログ: 「奮って御参加下さい」とか
[引用サイト]  http://finalvent.cocolog-nifty.com/fareastblog/2006/07/post_dc94.html

学力低下問題にはあまり関心はないのだが、今日の読売新聞社説”[読み・書き・計算]「基礎学力向上への指導法を探れ」”(参照)の次の話にはちょっと首を傾げた。
「挙手」を「きょしゅ」と読めたとしてその意味がわかるということではないだろう。その意味がわかるということは、ただ「手を挙げる」と解することに加え、「では、賛成のかたは挙手をお願いします」といった日本語の状況を理解しないといけないはずだ。
というところで、「手を挙げる」と書くべきか、「手を上げる」と書くべきか、をきちんと学校では教えるのだろうか。「手を上げる」と書かせておいて、「挙手」をそれと並行で教えるとしたらそれは矛盾してないか。
漢字と日本人 結論を言えば、「上」でも「挙」でもいいというのだが、では、日本語としてどっちがより正しいのだろうか? あるいは「挙」でもいいところは「上」でもいいのだろうか。そんなわけはない。「国を上げて」とか「犯人を上げる」はまずいだろう。どっかに使い分けの法則があるはずだ。「式を挙げる」は挙式からだ。しかしとすると挙手から「手を挙げる」になり、振り出しに戻る。
もともと訓というのは日本語であり、漢字になじまないものだと、高島俊男先生の「漢字と日本人」(参照)のようにわりきってもいいのだろう。
しかし、と考えあぐねるのだが、訓は「うお」と「さかな」で、音は「ぎょ」ということか。音は、呉音・唐音・漢音があるから複数あってもいいが、訓は大和言葉というか訳語で、それが「うお」「さかな」と並列するのはアリなんだろうか。アリとすればどういう原則なんだろうか。
日常語では「うお」とは言わないしなと思っていたが、沖縄で暮らしていると、うちなーぐちでは「いゆ」である。「うお」の音変化であろう。うちなーぐちは言語学者の大半がとんちんかんなことを言っているが、やまとの室町時代の言葉である。やまとことばとしては「うお」でいいのだろう。広辞苑で「さかな」の古語を見ていると、やはり全部「肴」をあてているので、「うお」と「さかな」は古語では別だったのだろう。
頼遠は酔ひも廻つてゐたらしいが、これを聞いてからからと打笑ひ、「何院といふか、犬といふか、犬ならば射て落さう。」
この「犬」のところをどう読ませるのだろうか。「いぬ」であろうか。すると、「なにいんというか、いぬというか、いぬならばいておとそう」と読ませるのだろうか。ここは「院」と「犬」が駄洒落になっていないとおかしい。ということは、「犬」は「いん」と読むのであろう。というのは、室町時代の日本語を保持するうちなーぐちでは、「犬」は「いん」である。通常は「いんぐゎ」ではあるが。
話は些細なことになったようだが、この「院」とは、魚を「さかな」と訓じる現代日本人としては「天皇」を意味するといってもいいだろう。だが、「天皇」とは諡である。そしてであれば、神皇正統記で親房は奇妙なことを言っている。冷泉院を指し、
とあり実は天皇制とやらは万世一系どころではない。欠損がある。幕末に日本史を整理してその時点で諡を補っただけのことだ。
話が散漫になったのでオチはないが、日本語についての学力というのは、まさに日本をどのように理解しているか、古語と古人の言葉をどう受け継ぐかに関わることだし、それ自体が愛国心そのものでもあろう。大人が日本の国とその文化と言葉を愛しているなら、子供もいつかそういう大人に成長するだろうと思う。
使い分けはないのが本来の日本語で、歴史の中で使い分けができてくるはずのところ、支那語という先進文明を受け入れてしまったために「支那人のように」使い分けをし、志向の枠まで支那人になってしまった。
終風先生は日本人を中国人の共通点を指摘されておいででしたのでこのエントリもさらに続く事を期待します。
常用とかそういう存在を知らない小学生の時分に覚えたものだから、例外なくそうなんだと思ってしまったのは、今思えば浅はかなのだが。
お陰で文献すら疑ってかかる論理思考に傾いたが、こと文学に関しては非常に曖昧さを重視するようになってしまって。
しかし、記憶ってのは納得することで覚えることが多いはずだから、時が過ぎても挙手を覚えているということは、すなわち経験的に挙手を知っているということになるんじゃないんだろうか。
でも、言葉ってのは突き詰めれば人の感性によるもので、同じ単語でも意味のとり方がちぐはぐだったりする。
そんな私は未だに10代の若造だったりして、日本の日本語の何たるか、なんてものが継承出来てるかって言うと、首をかしげずにはいられない。
日本や日本語は好きだけど、それは、結構適当な言い方をしても、案外相手に私の言わんとしている事が伝わるからだったりする。
鈴木孝夫の受け売りですが、漢字の訓読みが廃れたら、明治時代に量産されて今でも大量に使われてる漢字語の意味が不明確になると。
だいたい、漢和辞典を引くときも「訓」で引くのが一番速いですしね。でも「訓」を知らなけりゃ引けないか。
私がけっこうヘンだなぁと思うのは、ワープロ(パソコン)の普及にともない、なんでもかんでも漢字を使おうとする傾向です。たとえば、「頂きます」なんて書く人が多いですが、私はこれは直感的にヘンだと思います。「下さい」なんてのも「ください」でいい気がします。「出来る」はやっぱり「できる」でしょう。「殆ど」は「ほとんど」。
「支那」は当て字に思われます。「シナ」あるいは「しな」と文字では表記とすべきでしょう。わざわざ「支那」と書くことで、何かを取り逃がしているように思えます(蛇足ですが、発音上は「支那」か「シナ」かを意識する必要はありません)。「意外」と「以外」の変換ミスをスルーする人は多いです。手で文字を書いていたら「思考」を「志向」と書くなんてあり得ないです。それから味噌の「噌」の時は間違ってます。「噂」とか「鱒」とか……。広辞苑をご参照ください。ほかの言語はよく知りませんが、日本語は欠損が多い気がします。
正しい読みができると辞書が引けるという利点がありますね。読めなくて辞書を引けない、言い回しが浮かんでこない、Googleで調べられない、痛感します。
今、小中学校等では「日本語」と言う科目があるのかしら?「国語」と言う科目で勉強していると、言葉を相対化出来ず、他国の言語も訳分けらんことになって・・・
「うお」と「さかな」ですが、泳いでいるものは「うお」、食べるものは「さかな」と意識せずに分けて使っています。魚釣りは「うおつり」であり「さかなつり」とは読みません。同じようなものに牛もそうです。四足で歩いていれば「うし」であり肉になれば「ぎゅう」と読みその逆はありません。私の言語圏は大阪の淀川水系で「摂津」に近いです。言語圏を明確にしないと、大阪といった場合に言語的には摂津、河内、泉州に大きく分類されるからです。圏外の人にはすべて関西弁なのでしょうが、どの方言をバックボーンとするかは思考の上で重要だからです。
訓読みというのも、子供の頃は、「やまとことば」といいならっておりました。漢字と読み、意味、日本語との関係は簡単には解けませんし、だからこそ面白いともいえます。教育の問題ともなると、面白がってもいられませんが。漢字の問題については京都大学の和辻教授の本が平易で、わかりやすいので興味のある方はご一読を。
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